悲しみと失意から神の希望が見える

2010年11月7日

説教 原田 史郎牧師

創世記18章1~6節

 

 召天した方々を思い起こすとき、わたしたちは、二つの思いの間に揺れ動きます。

一つは、愛する者との別れ、死別であり、そこから来る悲しみや淋しさです。もう一つは、信仰からくるもので、今は天に在ってキリストと共にいる、という喜びであり、慰めです。

 暑い真昼、アブラハムは天幕の入口に座っていました。目を上げると、そこに三人の人が立っていました。アブラハムは走り出て、彼らを迎え、最大限のもてなしをします。(69節)

 三人のうちの一人が、「あなたの妻サラに、来年の今頃、男の子が生まれているでしょう。」と告げます。これを後ろの天幕で聞いていたサラは、ひそかに笑います。自分も主人も年老いていて、そんなことが起こる筈がない、と思ったからです。

 

 ここに、わたしたちが直面する二つの世界の相克があります。一つは、わたしたちのこの世での肉をまとった人間的な現実です。アブラハムは、このとき九十九歳か百歳でした。(17:1,17)サラは、十歳若いのですが、それでも九十歳です。

 かって、ハランを出立したとき、アブラハムは、七十五歳でした。けっして若いとは言えませんが、それでもまだ気力、体力に満ちていました。わたしたちに日々迫ってくる老いと死。或いは、若くても病や苦しみによって、しばしば悲しみや失意に道を閉ざされてしまうことがあるのです。

 しかし、もう一つの霊的な現実があります。それは、神さまの約束であり、み言葉の成就です。主は、アブラハムに「わたしはあなたを大いなる国民にする。」(12:2)と約束されました。神さまのみ言葉は、変わることがありません。失意や悲しみがあっても、その中に働く、神さまの約束と救い(ル力3:1~6)は、確実にわたしたちに近づいているのです。

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