神殿での奉献

2011年1月2日

説教 原田 史郎牧師

ルカによる福音書2章21~40節

 律法の定められた期間が過ぎて、マリア、ヨセフは、奉献の祈りのため、幼子イエスを神殿に連れて行きました。そこには、シメオンという老人がいて、彼は、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいました。また、メシア(キリスト)に会うまで、決して死なないと、聖霊の示しを受けていました。老いゆく自分の余命を数えるという戦いの中で、来るべき神の約束の成就を、望んでいたのです。

 シメオンは、幼子を腕に抱き「主よ、今こそあなたは、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしは、この目で、あなたの救いを見たからです。」と、神さまを讃えました。幼子を腕に抱いたとき、シメオンは、希望を胸に抱いたのです。そして、希望を抱くということは、喜びを持つ、ということであります。

 神さまは、わたしたちのファイナルステージでも、シメオンのように素晴らしい花を咲かせてくださいます。今、99歳のおばあさんの詩集が、多くの人に、慰めと励ましを与えています。この人の、生きてきた辛いことや嬉しかったことの半生が、最晩年の詩に表わされているからでしょう。シメオンが、日々、神さまに望みをおいて歩んできたとき、神さまは、ついに、彼を、メシアに導かれたのでした。

 「キリスト者の希望の根拠は、未来を形造るわたしたちの能力にあるのではない。キリスト者の希望は、神が現在、存在されるように、未来も存在されるという確信に基づいている。」(シンシア・キャンベル)

 今日、恵み深く、わたしたちと共にいます神さまは、明日も変わりなく、わたしたちと共にいてくださいます。その確信が、希望の根拠になるのです。それは、神さまの大きなみ手の中に、わたしたちの明日や未来があるということです。新しく始まった2011年も、主を見あげ、主のみ業の現わされるのを期待しつつ歩みましょう。

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