荒野の誘惑

マタイによる福音書4章1~11節

牧師  原田 史郎

 霊に導かれ荒れ野に行かれた主イエスは、40日間の断食をした後、空腹を覚えられました。すると、そこに悪魔がやって来て「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」とささやきました。人間の第一の欲求は、パンに代表される体の必要が満たされることです。

 しかし、イエスは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と答えられました。パンは確かに必要です。だがパンがあればよいというものではありません。人は、神に信頼し、その信頼に生かされている関係の中で、生きるものであるからです。

 次に悪魔は、イエスを神殿の屋根の端に立たせ「神の子なら、飛び降りたらどうだ」と、詩編91編11,12の神の守りが約束されている聖句を引用して誘惑しました。わたしたちも日常生活の場面で、しばしば神さまの守りはどこにあるのだろうかと、問いたくなる誘惑があります。

 しかし主が悪魔に対して引用された「あなたの神である主をためしてはならない」は、出エジプト記17章7のマサでの出来事のことです。

このとき、イスラエルの民は、水がないことでモーセに詰めより、水をもって、神さまの導きを試したのでした。試みることで神さまが分かることはありません。信頼によってのみ、神さまがおられることが分かるのです。

 最後に悪魔は、イエスを高い山に連れて行き、自分にひれ伏すならば、国々の繁栄を与えると誘惑します。イエスは「退け、サタン。あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と言われました。神さまへの信頼は、最後には「礼拝」の問題にいきつくのです。主イエスが、メシアとして行く道は、人々のパンを満たすことや、なにか奇跡的なことで注目されることでもなく、真に人を生かす神の言葉を語り、神への信頼と服従を貫く道なのです。わたしたちの生きる道もまた、礼拝することにその中心があるのです。

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