神さま、仏さま、キリスト様

牧師 原田 史郎

使徒言行録17章22~31節

 

 日本人が普通いう神さまは、聖書の神(ゴッド)のことではありません。日本の豊かな自然から生み出された「八百万(やおよろず)の神」であり、「祖先の霊」のことです。この神さまになる(認定される)のは、「尋常(よのつね)ならず、すぐれたる徳(こと)のありて可畏(かしこき)物」(本居宣長)でなければなりません。

 この神さまは、日本人の心が造り出した神さまですから、決してわたしたちを不愉快にすることはありません。心地の良い、何でも聞いてくださる神さまです。

 大陸から仏教が伝来しますと、日本人は、神さまを祭りながら、仏さまを受けいれました。神仏習合です。仏さまは、生老病死の苦しみからの救いの道を示します。苦しみの原因である執着を捨てて、遂には、喜怒哀楽をも脱して、無になる「涅槃(ねはん)」に達するのです。このためには、厳しい修行が必要です。わたしたちには、出家してそこまで修めることは出来ません。そこで、ある宗派では、阿弥陀様におすがりして「南無阿弥陀仏」と称名を唱えることで、救いを目指します。ひたすらに究極の「無」を目指し、輪廻転生からも解脱するのです。

 これらの教えは、日本人の心に深い精神性を与えその考え方は、わたしたちの日常の生活の隅々にまでに及んでいることを認めざるを得ません。

 しかし、パウロは、アテネの人たちに「知られざる神」の祭壇の前で、「世界と万物とを造られた」創造者なる神さまがおられることを、語りました。そして、この神さまは、イエス・キリストをわたしたちのところに遣わされ、このキリストは人間の罪の一切を担って十字架にかかられ、「復活」されたことを伝えました。人間の歴史に、永遠の命の「希望」が輝き現れたのです。日本人がまだ良く知らないキリスト様ですが、このキリスト様に無から希望への転換があるのです。

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