これ、わが体、わが血

牧師 原田 史郎

コリントの信徒への手紙一11章23~29節

 

 主イエスは、最後の晩餐の席で、パンを取り、感謝の祈りをささげ、

 それを裂いてから「これは、あなたがたのためのわたしの体である。

 わたしの記念としてこのように行いなさい。」と言われました。

 この「記念として(アナムネーシス)」という言葉は、過去の出来事を思いだして単に記念するということではなく、そこに現在の出来事として、「想起する」「想い起こす」ということです。このために主イエスは、弱さをもっているわたしたちのために、印象深く、目で見ること、口で味わうことによって、救いの出来事を受け止めることが出来るようにしてくださったのです。

 キリストの肉、血の比喩として、パンを食べ、ぶどう酒を飲むことは、二つの意味があります。

一つは、キリストの十字架の苦しみと死を、わたしたちのものとして、受け入れることを表します。ラウハウスによれば、それは単純に「信じること」と同じなのです。この信仰により、わたしたちはキリストから、罪の赦しと、永遠の命を受け取るのです。

 二つには、このようなことは、「聖霊」によらなければ決して起こらないことです。どんなに哲学や神学に通じていても、もし聖霊によらなければ、それはその人の生き方や生涯に関る意味を持たないでしょう。

また、どんなに荘厳な聖餐式やミサも、聖霊によらなければ単なる宗教的な儀式や形式にすぎません。

 しかし、わたしたちが信仰によって、キリストの肉としてパンを食し、血としてぶどう酒を飲むことは、キリストとわたしたちに働き、臨在したもう聖霊によって、「祝福されたキリストの体と一つになる」ことなのであります。それは聖霊がわたしたちの内にあり、キリストを満たしているからです。聖餐によって、わたしたちはキリストの聖さにあずかり、キリストの永遠の命に生かされるのです。これは大きな神秘であり秘跡です。今日もわたしたちに働く聖霊に深く信頼しつつ、キリストの永遠の命に生かしてくだる主を心から賛美しましょう。

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