仕えるために来た

牧師 原田 史郎

マタイによる福音書20章20~28節

 ゼベダイの息子たち(ヤコブとヨハネ)の母が、主イエスのところに来て、息子たちを王座の右と左に座らせてくださいと、願い出ました。これを知った外の十人の弟子たちは、ひどく腹を立て、弟子たちの中に混乱が生じます。

 主は、一同を呼び寄せて「偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」と諭されました。わたしたちは、良いことをしなければならないと思っていますが、ほんとうの意味で無私の良き行為をなすことは出来ません。どこかに打算や、報いを求めてしまう卑しい心が本性としてあるからです。仕えることが大切なことは分かるのですが、そこには、どうしても限界があるのです。

しかし、主イエスは「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」と言われます。先日、北海道湧別町で、53歳の父親が、9歳の娘をかばって、大雪のなかで凍死しました。この方は、自分が着ていたジャンバーを娘に被せ、シャツ姿でした。また遺体の両手は、娘を抱きかかえるような形のままだったということです。「命かけ娘を温めた」が新聞の見出しでした。この父親は、娘を愛していたので命をかけたのです。主イエスが「仕えるために」と言われるとき、それは「自分の命を献げるために来た」ということでした。それはわたしたちを、それほどまでに愛しているということなのです。仕えることは、愛から出てくるのです。 

前回 目次へ 次回