静まりから生まれるもの

原田 史郎牧師

マルコによる福音書1章29~39節   

 主イエスのガリラヤ宣教は、多忙を極めていました。主はカファルナウムの会堂で教えられた後、シモンの家に行き、彼のしゅうとめをいやされます。すると、安息日が終わった日没に「人々は病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった」のでした。これらの主の一連の働きに、日本語訳聖書は訳出していませんが、原文には「また(カイ)」という接続詞が付けられていて、息を継ぐ間もない、主の活動が表現されています。

 その翌朝「朝早くまだ暗いうちに、イエスはおきて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられ」ました。人々がまだ暗い闇の中に眠っている間に、主は目覚められ、闇から光への道を開いてくださるのです。静まりのときは、わたしたちの信仰生活にとっても欠かせないことです。

 まず、神さまのみ前に静まることによって、「神さまご自身を知る」ことが出来るのです。わたしたちは、毎日の仕事の段取りや、細々とした日常の雑務に追われています。しかし「静まって、わたしこそ神であることを知れ(口語訳聖書、詩編46編10節)」と主はいわれます。

 神さまを知ることは、「神さまのみ心を知る」ということでもあります。

それは、神さまのわたしたちに対する救いのご計画や摂理を知ることでもあります。アブラハムは神さまの呼びかけに従い、まだ見たこともない地へと出発しました(創世記12章1~4節)。それは、この時代にあっては大きなリスク、危険を伴う旅でした。しかし、アブラハムは一言もつぶやくことをしませんでした。彼は神さまの御言葉に聞き入り、その約束を信じたからです。静まりのときを大切にしたいものです。

前回 目次へ 次回