捨てた石は隅の親石だった

(3月22日の説教から)

 牧師 原田 史郎

ルカによる福音書20章9~19節

 主イエスは、民衆にたとえ話をされました。最初の話は、主人がぶどう園を農夫たちに委ねて、遠くに旅立ちます。収穫期がきて、収穫をおさめさせるために、主人は僕を遣わします。だが、農夫たちは、この僕を袋ただきにして、追い返します。このようなことが三回も続き、最後に主人は「わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう」と跡取り息子を送りました。ところが彼らは「息子をぶどう園の外にほうり出して、殺して(アポクテイノー)しまった」のです。誰が考えても残酷で悲惨な事件です。このような場合、古代世界は、これらの農夫は殺され、ぶどう園は他の人に与えられます。民衆は「そんなことがあってはなりません」と言いました。

 そこで主は、もう一つのたとえ話をされます。「家を建てる者の捨てた(アポドキマゾー)石、これが隅の親石になった(詩編118編22節)」を引用され、この石をないがしろにする者は、その身に裁きを招くことを示されました。このふたつのたとえ話に出てくる「殺す」「捨てる、」という言葉は「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて(アポドキマゾー)殺され(アポクテイノー)、三日目に復活することになっている(9章22節)」と主が受難予告に使われた言葉です。

 沈痛な受難予告を秘めたたとえ話ですが、しかし、この話に垣間見えるものは、繰り返される農夫たちの反逆にも関わらず、忍耐と憐れみをもって、なお彼らとの和解のため、また、わたしたちの救いのために、独り子を送られる神さまの愛なのです。

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