「たった一人のための働き」

(6月21日の説教から)

 牧師 原田 史郎

 使徒言行録8章26~40節

 主の天使は「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザに下る道を行け」とフィリポに命じます。そこは「寂しい道」でした。サマリアの町で、多くの回心者を得ていたのに、なぜ、寂しい道に行かなければならないのでしょうか。しかし、フィリポは議論をしたり、理由を尋ねたりしません。彼は、即座に従い「すぐ出かけて行った」のです。

 丁度そのとき、エチオピア人の宦官が馬車に乗って、通りすぎるところでした。その人は、預言者イザヤの書を朗読していました。御霊は「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」とフィリポに命じます。彼は「読んでいることがお分かりになりますか」と聞きました。このとき、宦官が読んでいたイザヤ書53章は、「苦難の僕」と呼ばれるメシア(キリスト)預言の箇所であり、初代教会では、「人の子イエス」のメシア性を証しする最も大切な箇所でした。

 宦官は「預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか」と聞きました。ユダヤ教やキリスト教の体系や教理のような「何か」ではなく、この「苦難の僕」は一体、「誰なのか」ということは、信仰の中心的な問いであります。そこで「フィリポは口を開き、聖書のこの箇所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた」のでした。

主はフィリポを、ガザの寂しい道を通り過ぎる、馬車に乗っているたった一人の異邦人のために遣わされました。わたしたちも、ときどき、どうしてこの様な不毛の地、寂しい道に導かれたのかと思うときがあるかも知れません。しかし、そこに神さまの素晴らしい霊の働きが現れるのです。

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