「新しい人間になるために」

(8月21日の説教から)

牧師 原田 史郎

ヨハネによる福音書8章12~20節

「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」 仮庵の祭りのイベントは、「水(37節)」と共に「光」でした。神殿の庭の四つの大きな燭台に、火が灯されました。祭りの期間中、この火は、エルサレムの町の隅々にまで届いたといわれます。

この光を背景に、主が「わたしは世の光である」と言われたのは、旧約以来の神の自己顕現の定式に倣っており、それは、ご自身がメシア(キリスト)であり、父と一体の神であることの宣言でありました。

この主のお言葉に、ファリサイ派がさっそく「その証しは真実ではない」、と反対しました。この二つの全く正反対の立場と理解は、わたしたちがイエスを、世の光であるメシアまた神として信じ従うのかどうか、という問いの前に立たせるのです。

人は誰でも闇よりも光を好み、光を求めます。古来、日本人もまた、平安朝の和歌にもあるように、光を「天空に満ち、差し来る」自然の日として認識し、大切に考えました。寝殿造りにみられるように、この日に向かって起居就寝をし、机は南向きに置き、筆を遣う者は北側に座って、手紙に「硯北」と書き添えました。「日の神」を求め、北枕を嫌いました。

しかし、主イエスの光は、これらの光(日)を遥かに超えるものです。主イエスの光は「命の根源から来る光」であり「命そのものの光」であります。それは生まれつきの盲人の目を開き、彼を縛りつけていた全ての宗教的社会的な偏見から解放し、その人の生きかたを根本的に変える力であることによって証しされます(ヨハネによる福音書9章1~12節)。この光の主がおられ、招いてくださるのです。罪と死に支配された暗闇から離れて、光の主に従いましょう。

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