「聞く耳のある者は幸いだ」

2月5日(日)

牧師 原田 史郎

マタイによる福音書13章10~17節

 

 なぜ、たとえで話されるのですか、と聞く弟子たちに主は「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである」と答えられました。「悟ることが許されている」とは、神から教えられ、真理に導かれているということです。これに対して「悟ることが許されていない」ということは、自分の知恵と知識に信頼し、神の教えや導きに心を閉ざし、閉め出しているということです。

神はわたしたちの内に超越者を感知する「宗教の種」(カルバン)を蒔いてくださいました。主が話された「『種を蒔く人』のたとえ(13章1~9節)」では、道端の種、石地の種、そして茨の中に落ちた種は、みんな枯れてしまいます。だが、良い地に蒔かれた種は、30倍、60倍、100倍の実を結びました。わたしたちは、どんな地かと問われるならば、道端や石地、茨のような地であるとしかいえません。

 しかし、神は、そのようなわたしたちの固くて石ころだらけの心を耕し、豊かな実を結ぶ地に変えてくださるのです。イザヤが予言したような(イザヤ書6章9~10節)、語られる神の言葉に、頑なで反抗的になるのではなく、神の言葉に耳を開いて聞き、受け入れて従う柔らかな心をもつ者となりたいものです。主はそのような者に「あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」と言われるのです。

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