「重荷を負う者よ、来たれ」

6月11日

 牧師 原田史郎

マタイによる福音書11章25~30節

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」と主イエスはわたしたちを招かれます。当時のユダヤの人々は、細かい律法と掟に縛られ、その重荷に疲れていました。また、律法に縁のない徴税人や罪びとたちも、人生の様々な重荷に苦しみ、疲れていました。わたしたちには、魂と心の重荷、そして日々の生活や体の重荷があります。家庭内暴力やいじめに悲鳴を上げている人たちは、今の社会に潜む闇の重荷が作りだしている表われでありましょう。

また主は「わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすればあなた方は安らぎを得られる」と言われます。軛は畑を耕す牛の首に着ける木製の首輪です。農夫は、自分の牛に合わせて、一頭一頭ていねいに木を削って軛を作りました。そのように「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と言われるのです。この「負いやすい(クレーストス)」という言葉は、「適した、心地よい、役に立つ」などの意味があります。主の軛はわたしたちに相応しい、心地よく、生きる力を与えてくれる軛です。なぜならわたしたちの一切の罪の重荷を、主は十字架で負ってくださり、新しい命を与えてくださったからなのです。

前回 目次へ 次回