「神の言葉に留まる」

12月10日 牧師 原田史郎

エレミヤ書36章1~10節

 エレミヤに主の言葉が臨みます。彼に語られてきた全ての預言を、巻物に書き記しなさいというのです。「ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す」と主は言われます。

 主の御心は、災いを与えることではなく、彼らが悪の道から主に「立ち帰る(シューブ)」ことにあります。シューブという言葉は、英語の「ターン」と同じで、水泳競技に見られるように、ターンすることによって、方向転換し、生き方を変えることです。「かもしれない」という言い方に、まだ可能性を期待している主の思いがうかがわれます。

 神殿に立ち入ることを禁じられている預言者に代って、バルクがエレミヤの口述に従って書き記した巻物を、神殿で読みあげます。これを聞いたミカヤは、このことを王宮にいた役人たちに話し、そこからヨヤキム王に伝えられました。けれども王は、巻物の言葉が三、四欄読み終わる毎に、ナイフで切り裂き、ついに巻物を全て暖炉の火にくべて燃やしてしまいます。王は、自分にとって、不都合な真実を受け入れることが出来なかったのです。主の言葉よりもエジプトとの同盟に信頼を置いていたからです。

 「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい(テモテへの手紙二42節)」とパウロはテモテに書き送りました。御言葉から逃げないで、御言葉に留まることが大切です。罪や悔い改めを求める御言葉は、嬉しいものではありませんが、それでも御言葉に留まるならば、神の言葉は、わたしたちに「魂を生き返らせ・知恵を与え・心に喜びを与え(詩編19篇8~9節)」てくれるのです。

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