私の主、私の神よ

4月8日

牧師  梁 在哲

ヨハネによる福音書20章19-31節

復活なさった主イエスは弟子たちの恐れと疑い心の扉を超えられ彼らに平安とお赦しと慰めの御言葉をお仰せになった。弟子たちに世に遣わされる者として聖霊が与えられ罪のお赦しの権威が託され正に主イエスのお体なる教会が建てられたのである。洗礼は一回限りの罪の赦しである。教会の目に見えない御言葉の説教において罪の赦しは宣言され目に見える御言葉の聖餐において罪の赦しは繰り返して新たにされ私たちは礼拝毎にご復活の命に生き返らされて聖霊に満たされ罪を赦された者として互いに罪を赦し合いつつ世に遣わされるのである。

疑い深いトマスのために復活なさった主イエスは再び現された。それは見失っていた一匹の羊を探し回れる良い羊飼いでおられる御姿であった。主イエスはトマスの心の中に潜んでいた疑いをよくご存じで「信じない者ではなく信じる者になりなさい。」と言われた。復活なさった主イエスの確さを目の当たりにしたトマスの頑なな心と疑いは消えゆき、ついに「私の主、私の神よ」と、彼らしく徹底的に言い表した。それは「救い主であられる主イエスを信じる」完全な告白であった。

主イエスは最後にトマスに「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は幸である。」と語られた。それは今日を生きる私たちにも「見ずに信じる幸いな信仰に立てるように」と、語られる主イエスの祝福の御言葉である。

私たちもトマスのような否、トマスよりもっと疑い深く弱い者である。しかし主イエスはいつも私たちと共におられるのを願っておられる。私たちは常に語りかけて下さる復活なさった主イエスより聖霊に満たされ、罪を赦された者として共に「私の主、私の神よ」と答えつつ、地上の旅路を歩んで行く者であり続けたいと切に願う。

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