キリストは真の羊飼い

4月15日

牧師  梁 在哲

ヨハネによる福音書10章7-18節

主イエスより癒された生まれつきの盲人はファリサイ派の人々に躊躇(ためら)うことなく主イエスのことを証した。ところが彼らはその男を罵りながら会堂から追い出してしまい主イエスとの間に緊張の空気が漂っていた。こうして主イエスは彼らにご自身を「羊の門」に例えられて羊のような私たちが「永遠の命へ入る唯一の道」でおられることを明らかにされた。だから主イエスはお仰せになる。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ誰も父のもとに行くことは出来ない」と。

また主イエスはご自分を「善い羊飼い」でおられることを語られた。それは「非難される余地のない完全な」また「偽りのない」「真の羊飼い」である。主イエスはご自分のものたちに豊かに命を得させる為また罪と死の奴隷となっていた私たちを解き放って下さるためご自身を身代金として払われた。それはご自分の命を捨てられて人間の罪を贖って下さった十字架の死に他ならないし、御父から受けた「命の掟」である。主イエスは言われる。「私は道であり、真理であり、命である」と。

宣教師リビングストンのお墓の碑文には今朝の聖書の箇所16節が刻まれている。「私にはこの囲いに入っていない他の羊もいる。」「この囲いに入っていない他の羊」は彼にとって未知の大陸アフリカの人々であった。私どもの信仰の先人たちも「この囲いに入っていない他の羊」のためにお祈りをもって涙と汗を流して館山の上真倉の丘に教会を築き上げたが未だに房総半島には27ヶ所余りの村・町に「この囲いに入っていない他の羊」が残されている。

主イエスは続いて「この囲いに入っていない他の羊」もご自身のお声を聞き分け、導かれて「一つに群れになる」ことをお仰せになった。それは歴史と地域において全ての教会を束ねたものであり、真の羊飼いでおられる主イエスをかしらとする目に見えない教会の姿ではないだろうか。それは私たちが主日礼拝の毎に使徒信条をもって唱え続ける「聖なる公同の教会」のことであり、年齢、性別、教養、財産、国家、民族、といった垣根を繰り返して打ち破って行くものでもある。教会は新しいイスラエルの民として神から呼び出された「一つの群れ」即ち、エクレシアである。私たちは主イエスが再び来られて「一つの群れと、一人の羊飼い」となられる時を仰ぎつつ、ご自分の羊を呼び集められる真の羊飼い、主イエスのお声に答えて託されている地上の御業に仕えて行く者でありたいと心から願う。

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