キリストにある喜び

4月29日  

牧師  梁 在哲

ヨハネによる福音書 第15章1~11節

主イエスはもうすぐこの地上に於いて弟子たちと一緒におられないことをお悟りになり、世に残される彼らのために二階の広間で語り始められた。それはお互いに愛し合う、一つの体であることを「葡萄の木」の例えを用いられてお示しになる「信仰の順路」であった。主イエスはご自分のことを「真の葡萄の木」として例えられて言われる。「私は葡萄の木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れるとあなたがたは何にも出来ないからである。」 如何なる良き業や良い人柄と修養でもない、ただ主イエスの御恵みによってのみ結ばれる「真の実」であるゆえに主イエスは言われる。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ誰も父のもとに行くことは出来ない。」と。(ヨハネ14:6)

更に主イエスはご自分の愛にとどまる上で「新しい掟」を守ることを求められる。その掟は「互いに愛し合う」ことで、弟子同士が互いに愛し合うことこそ、主の愛にとどまることである。弱い弟子たちが互いに愛し合う上で聖霊の御助けによる従順が伴い、従順には愛が伴うものである。何故なら父なる神はご自分に従順な者に聖霊をお与えになるからである。主イエス御自身十字架への道を通して御父への従順の模範をお示しになった。父なる神はご自身の秘められた御心を知恵ある者や賢い者には隠して幼子のような従順な者にお示しになることを御子なるイエスは聖霊によって喜びに溢れたと、聖書は証してくれる。(ルカ10:21)

主イエスは最後の信仰の順路についてこう語られた。「これらのことを話したのは私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」と。それは律法のような重荷ではなく「キリストご自身の完全な喜び」のことであった。主イエスは世に残される弟子たちが辿り着く「信仰の順路」の終点のことを言われた。それは主イエスに従う者をその道筋が狂わずに正しく導くように示される従順と愛による喜びに他ならない。主イエスは、弟子たちにもその喜びに満たされるよう明らかにされたが、それは「キリストの完全な喜び」であり、主イエスが歩まれた同じ道を歩む弟子たちの「あなたがたの喜び」は、徐々に満たされるものである。命の源であられる御子イエスの「完全な喜び」が命の湧水のように弟子たちの心に流れ来て彼らの信仰のダムは徐々に満たされ、保たれるようになる。

主イエスはご自分の「完全な喜び」によって私たちにも「キリストにある喜び」が徐々に満たされるよう願っておられる。たとえ私たちが世の悲しみや苦しみ、困難と試練の中にあっても私たちひとり一人の名が天に書き記され、主イエス・キリストが再び来られる望みのゆえに喜ぶことが許されているのである。私たちは「キリストにある喜び」に満たされつつある者として主イエス・キリストがお示しになる「信仰の順路」に従いつつ、この世の旅路を歩んで行く者でありたいと切に願う。

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