キリストの息吹

5月20日  

牧師  梁 在哲

使徒言行録 第2章1~13節         

復活された主イエスが天に昇られる際、弟子たちに「エルサレムを離れないで御父の約束されたものを待ちなさい」と、言われたお約束のゆえに彼らは皆一つになって心を合わせて懇ろに祈っていた。弟子たちの上についに約束された聖霊が降り注がれて神がアダムの鼻に命の息を吹き入れられたように「キリストの息吹」によってこの地上に教会が誕生したのである。私たちは五旬祭の日に起きた出来事-聖霊に満たされて新しく作り替えられた弟子たちの姿-を聖書の御言葉の証しを通して繰り返して聞かされている。さて、その物音にエルサレムの神殿で熱心に祈りを捧げていた敬虔なユダヤ人たちは驚いて言った。「彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」、と。ここに聖霊に満たされて新しく作り替えられた弟子たちの姿と、人々から無視されていたガリラヤ人たちから人々が「神の偉大な業」を聞かされている信じられない光景が見られる。

ところが彼らが言った「神の偉大な業」は一体何であろうか。それは「あの人たちは新しい葡萄酒に酔っているのだ」と嘲る者に立ち向かってペトロが力強く語った話しの中に明らかにされている。「ナザレのイエスこそ、神から遣わされたお方であり、あなたがたが十字架につけて殺してしまったイエスを神はよみがえらせて神の右に上げられてそこから聖霊が注がれた」と、証したものである。それは主イエスのことを知らないと裏切り、罵りの言葉さえ口にした臆病なペトロが「神の偉大な業」を大胆に語る主イエスの証人となっている姿の中に明らかにされているのである。

竹森満佐一先生は聖霊について「聖霊をまるで神の力のようなものだと、思い勝ちであるが、しかしそのような神から特別な霊の力を感じていなくても、もし、聖霊の御助けを求めつつ、キリストを信じ、救いを受けているなら、その人はもう十分に聖霊を受けている、と言って良いのであります。」、と言われた。父なる神は御子を通して人間の思いを遥かに越えるご自分の偉大な業を成し遂げられるのである。主イエスは人々から無視されて来た者たちをお選びになり、聖霊に満たされた彼らは神の偉大な業を大胆に語る者となったのである。私たちもペトロのような、否、それ以上弱くて臆病な罪深い者に過ぎない。しかしこのような私たちをも神は「キリストの息吹」、聖霊の御助けによって主イエスを救い主として信じて告白するように導いてくださる。私たちは「キリストの息吹」、聖霊の御導きによって「新しい神の民」として生きることが許されている御恵みに感謝しつつ、折を得ても得なくても主イエスキリストの福音、「神の偉大な業」を宣べ伝え続ける群れとなりたいと願う。

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