キリストの宣教

6月3日 

 牧師  梁 在哲

マルコによる福音書 第1章29~39節 

主イエスが会堂で汚れた霊に取りつかれた男を癒して下さった噂は、あっと言う間に町中に広まって人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆連れて、主イエスのおられるシモンの家の戸口に集まって来た。安息日が終わるのを待っていた大勢の人々は、夕暮れになって安息日が終わった途端、主イエスのおられるシモンの家に押し寄せて大騒ぎになったのである。しかし、主イエスはこのように大勢の人々でごった返す中でも忍耐をもってありとあらゆる病気の人々と悪霊に取りつかれていた人々を癒して下さった。

さて、主イエスは慌しい時を過ごされた後、お一人の静かな時間と場所を求めて朝早くまだ、暗いうちに人里離れた所で父なる神に祈られた。ところが主イエスの御心を全く知らない弟子たちは急いで主イエスを捜して病人や悪霊に取りつかれた者がいるカフアルナウムの町のほうに引き戻そうとした。しかし、主イエスは弟子たちの思い込みとはうらはらに「近くの他の町や村へ行こう。そこでも私は宣教する。そのために私は出て来たのである。」と言われた。人里離れた場所で朝早く、まだ暗いうちに主イエスはカフアルナウムに安住することなく出来るだけ多くの「近くの他の町や村」にも神の福音の宣教が広げられるよう祈られた。それはカフアルナウムでもっと大きな実りを願っていた弟子たちの思い込みを断固たる拒まれるものであった。私ども南房教会にとって主イエスが言われた「近くの他の町や村」は一体何処であろうか。

神の福音の宣教は、今も変わらない主イエスの至上命令であり、私ども教会の使命である。主イエス御自ら「そこでも私は宣教する。そのために私は出て来た」と、宣教の模範をお示しになったからこそ、私たちも主イエスに倣って宣教の働きに励むことが許されてまた、委ねられているのである。私たちは主イエス・キリストの宣教と祈りの模範に倣って目を覚まして、絶えずに祈りつつ、上からの目線ではなく謙遜を身に着けて、主イエス・キリストの良い知らせ‐福音‐を教え、宣べ伝え、地域と人々に仕える群れになりたいと願うのである。

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