キリストの御業

6月10日 

牧師  梁 在哲 

マルコによる福音書 第5章1~20節 

主イエスによって汚れた霊から解放された男は「一緒に行きたいと」願ったが、しかし主イエスはそれを許さず、家族のもとに帰るように命じられて、そこで「主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせる」ようにと、言われた。主イエスが失われた一匹の羊のような男に命じられた使命は、一人の悲惨な男のために御自らなさった御憐れみの御業を言い広めることであった。主イエスの御憐れみの御業は、汚れた霊に取りつかれた人の値打ちを明らかにされるものである。主イエスの御憐れみは、相手の苦しみや悲しみ、重荷をただ分かち合って共感するだけではなくてそれらを乗り越えられるような道と力と慰めをお与えになるものであり、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」  ‐マタイ9:36‐  そういうものである。

ひいては、その主イエスの御憐れみの御業は、十字架の上で成し遂げられた。主イエスは、罪の奴隷であった私たちの救いのためにご自身の命を身代金として惜しまなく十字架の上で捧げられた。十字架の上で成し遂げられた御憐れみの「キリストの御業」は、私たちひとり一人の値打ちが如何に測り知れないものであるかを明らかにされる。ペトロとアンデレ兄弟のように網を捨てて、またゼベダイの子ヤコブとヨハネ兄弟のように雇人たちと一緒に父親を船に残して主イエスに従うことではなく、新たな使命が汚れた霊から解放された男に与えられた。彼は村や家族からも離れ、墓場で叫び、徘徊し、自分を傷つけていた。聖書の知識もなければ、これといった訓練も受けなかった彼に主イエスは家に帰って身内の人にご自分の御憐れみの御業を知らせなさいと、言われた。彼はゲラサ人の地方とデカポリス異邦人の町で最初の伝道者になったのである。

「向こう岸に渡ろう。」と、言われてガリラヤ湖を渡って来られた主イエスによって失われた一匹の羊のような一人の悲惨な男は、汚れた霊の支配から解放されて、「キリストの御業」を言い広め始めるようになったのである。今日、教会の高齢化や少子化、また若者たちがなかなか集まらないといった懸念の声が叫ばれている。しかし、私ども教会は、「キリストの命」に満たされないことをむしろ、懸念しなければならないと、思われる。何故ならば、主イエスの十字架の上で成し遂げられた「キリストの御憐れみの御業」が、言い広められるところに、この地上において神の国は、着実に前に進み、私どもの教会の中に、「キリストの命」‐「ご復活の命」‐が、満ち溢れるようになるからである。私たちは、主日礼拝において折を得ても、得なくても、「キリストの御憐れみの御業」を言い広めて教会に、また各家庭に、そしてこの南房総地域に「キリストの命」が、満ち溢れるように切に願うのである。

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