キリストの貧しさ

6月17日

牧師  梁 在哲  

マルコによる福音書 第6章6~13節 

主イエスは御自ら村や町を残らず巡り歩かれて会堂でお教えになり、み国の福音を宣べ伝えて、ありとあらゆる病気や患いを癒して下さった。その後、山に登られて、これと思う人々を呼び寄せられて、「12人を任命し、使徒と名付けられた。彼らをそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」(マルコ3:14-15) そして、12人を呼び寄せ、二人ずつ組にしてお遣わしになった。後に、使徒パウロとバルナバも主イエスの模範に倣って伝道旅行を続けたが、やはり二人組は、互いに困難を分け合うことによって一人旅の不安や高慢になり勝ちの気持ちを助け合うようになったのである。主イエスより遣わされる弟子たちには、汚れた霊に対する権能が授けられて、それは何よりも心強くなることであったが、しかし彼らの旅には最小限の身に着ける物や携える物しか許されなかった上で、宣教以外の如何なる人間の工夫や知恵に頼らないように主イエスは命じられた。それは「気をつけていってらっしゃい」と、いった優しいお勧めではなくて、旅には杖一本の他は何も携えず、パンも袋もお金も持たず、ただ履物と一枚の下着しか身に着けることを許されない厳しいご命令であった。主イエスより遣わされる旅のために求められるのは「貧しさ」であった。

西郷隆盛は「児孫のために美田を買わず」と言い、貧しさをもって人間の甘えを戒めたが、しかし主イエスより弟子たちに求められた貧しさは、むしろその貧しさによってキリストの御恵みの豊かさを明らかにするものであった。使徒パウロは「キリストの貧しさ」をこう証した。「あなたがたは私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。即ち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは主の貧しさによってあなたがたが豊かになるためであった。」(コリントⅡ8:9) み子は御父より世に遣わされて、弟子たちは主イエスより人々を悔い改めさせるために派遣されて、私どもの教会も主イエスより世に遣わされる群れである。このように教会は、主イエスより厳しく命じられたように、宣教以外の如何なる人間の力に頼らずに、一本の杖で象徴される「キリストの貧しさ」に寄り頼って世に遣わされるのである。それを使徒パウロはこう証した。「十字架の言葉は、滅んで行く者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です。」 (コリントⅠ1:18)、「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」(コリントⅠ 1:21)。 「キリストの貧しさ」は、十字架の上で貧しいお姿で、何よりもご自分を捧げられた主の愛と恵みの豊かさに他ならないのである。

主イエスより厳しく命じられて世に遣わされる際、私どもの教会が寄り頼るべき一本の杖は「キリストの貧しさ」と共に「キリストの恵み」を現わす十字架であり、また主のご復活である。何故ならば、十字架の言葉は、私たち救われる者には「神の力」のゆえに御父はみ子を三日目に死人のうちよりよみがえらせてくださって復活させられたみ子は、栄光の勝利者として私たちひとり一人が神のみ前で正しい者、即ち私たちの義のために執り成しの祈りをお捧げになるからである。私たちは主イエスのみ言葉によって主日礼拝ごとに、この世に遣わされる群れとして、折を得ても得なくても、主イエスより厳しく命じられた一本の杖-イエス・キリストの十字架とご復活-に寄り頼りつつ、この地上の旅路を歩み続けたいと願うのである。

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