更に語り続けられる神

6月24日

牧師  梁 在哲

マルコによる福音書 第6章14~29節 

主イエスの宣教は益々盛んになり、その名が知れ渡るようになって『人々は言っていた。洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから奇跡を行う力が彼に働いている。そのほかにも「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。』(6:14-15)その噂はヘロデ王の耳にも入って、彼は「私が首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。後に主イエスご自身もフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった際、弟子たちに、『「人々は、私のことを何者だと言っているか」と言われた。』(827)弟子たちは「洗礼者ヨハネだ」と言う人もいれば、ほかに「エリヤだ」とか「預言者の一人だ」と言う人もいると答えた。ナザレのイエスは一体何者だろうと言う問いに福音書の記者は洗礼者ヨハネの死を通して答えているのである。

ヘロデはヘロデ大王が死んだ後、16歳にガリラヤとペレアの領主となった。ヘロデは父とは違って王より低い地位である「領主」に過ぎなかったので、その意味において彼はコンプレックスのかたまりで、自分の地位が脅かされるのを恐れて疑心暗鬼となっていたのである。彼はアラビアのアレダ王の娘と結婚したが自分の腹違いの兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚してしまい、洗礼者ヨハネより厳しく非難された。そのことでヘロデは洗礼者ヨハネを牢屋につないでいて、ヘロディアはヨハネを恨み、強い殺意を抱いていた。一方で、ヘロデは洗礼者ヨハネが正しい聖なる人であることを知って彼を恐れて保護し、その教えを聞いて非常に戸惑いながらも喜んで耳を傾けていた。

彼は領土を分割する権力などないのにヘロディアの娘サロメに「お前が願うならこの国の半分でもやろう。」と威張っていて、またヘロディアが「洗礼者ヨハネの首を」と願うと、内心ためらいながらも王であるように振舞いつつ、ヘロデイアの言いなりになっていた。今日、私たち一人ひとりの心の中にある椅子の上には、昔ヘロデがそうであったように自分自身が「王」になって座っているのではあるまいか。王のように振舞っていたヘロデの姿は、また私たちの姿でもある。後に、ヘロデは逮捕された主イエスに色々尋問したが、主イエスは何もお答えにならなかったので彼は主イエスをあざけり、侮辱した後、ピラトに送り返した。昔、主イエスがヘロデより仕打ちを受けられたように、教会もこの世から仕打ちを受け続けていた。77年前日本における30余派の福音主義教会と他の教会も日本基督教団と言う名を強いられて束ねられた。

ヘロデイアの言いなりになっていたヘロデによって惨めな死を迎えた洗礼者ヨハネは、もはや語ることが出来ないが父なる神は、御子イエス・キリストを通して、また御子は弟子たちとご自分のお体なる教会を通して「更に語り続けられる。」目に見える御言葉‐パンと葡萄酒を分かち合う聖餐式‐を通して、そして目に見えない御言葉‐聖書の解き明かし‐を通して「神の御言葉は、更に語り続けられる。」たとえ私たちの言葉が弱くて、乏しいものであっても、「十字架の御言葉は、キリストの恵みであり、神の力」であるがゆえに、私どもの教会は、語り続けることを委ねられている群れとして、折を得ても得なくても神の御言葉を語り続けたいと願うのである。

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