神の家族

 7月15日

  牧師  梁 在哲

マルコによる福音書 第10章13~16節

 主イエスの身内の人たちは「あの男は気が変になっている」と言う噂を聞いて主イエスを取り押さえに来て、人に伝言を取り次ぐように頼むほど遠慮勝ちになっていた。母マリアと兄弟たちは皆、何か他人行儀のような振る舞いをしていたのである。ところが、人の伝言をお聞きになった主イエスは「見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」 (マルコ3:3435)と、お答えになった。主イエスは周りに座っている人々こそ、つまりご自分に連なっている人々こそ、血と肉のつながりを超えて母であり、兄弟である「神の家族」のことを明らかに宣言されたのである。

「神の御心を行う人」は、神の御言葉を良く聞いてそれに従ってそれを行う日々を生きようとする、つまり御言葉に生きる人々であり、御言葉に生きる人々は主イエスの母と兄弟姉妹、即ち「神の家族」として主イエスに連なる群れ-キリストのお体なる教会-を造り上げることを託されている者である。主イエスは身内の人たちより拒まれ、ついに十字架にかけられるまで拒まれたが、しかし復活なさった主イエスは「十字架とご復活」の出来事を通して血と肉のつながりを超えて御言葉に生きる「神の家族」として私たち一人一人を招いてくださるのである。

 主イエスは「神の家族」として子どもたちを豊かに祝福してくださった。当時のユダヤ人の習慣に従って、両親たちは主イエスに触れていただくために子どもたちを連れて来たが、彼らは弟子たちに叱られた。主イエスに従う群れが主イエスより祝福を受けたい願いは自然体で、先生に邪魔になれないように群れを阻止した弟子たちの行動も自然体であったが、純粋な子どもたちが来るのを快く受けられるご自分の思いに気づかずに群れを叱る弟子たちに主イエスは憤りを表された。「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることは出来ない。」(14‐15節) 

主イエスは子どもたちのことを神の国の主人だと言われたが、これは文字通りの意味ではなく、子どもたちの純粋で信頼に値する品性、神の国の民の品性のことを言われたのである。両親たちは、主イエスより単純に祝福を願って子どもたちを連れて来たが、主イエスは子どもたちを神の国の主人に至るまで抱き上げ、手を置いて豊かに祝福してくださったのである。今も主イエスは、御言葉に生きる「神の家族」として私たち一人一人を常に招いてくださる。その御招きに答えて私たちは、キリストのお体なる教会を造り上げることを託された者として、子どもたちのような純真な真心をもって、神の国の命の書に自分の名が書き記されるように願いつつ、この地上の旅路を歩み続けたいと切に思うのである。

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