キリストに良いこと

9月9日

 牧師 梁 在哲

マルコによる福音書14章1~9節

 過越祭と除酵祭の二日前、べタニアにある重い皮膚病の人、シモンの家で一人の女性が主イエスの頭に純粋で非常に高価なナルドの香油を注ぎかけたが、主イエスへの献身のしるしである香油の香りは人々の憤りを煽るようなものとなった。そこで主イエスは「するままにさせておきなさい。何故この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ」(6節)と言われた。彼女がどのように主イエスのご受難と十字架の死の意味を理解し、意識して主イエスに油を注いだのかは定かではないが、主イエスへの愛と奉仕する思いで「前もって埋葬の準備をしてくれた。」、と主イエスは彼女の行動を高く受け止めてくださったのである。

それでは主イエスが言われた「私に良いこと」即ち、「キリストに良いこと」、とは一体何であろうか。それは裏切られ、逮捕される前、ゲッセマネで祈られた主イエスのお祈りに良く表れているのではないだろうか。「アッバ、父よ、あなたは何でもお出来になります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私が願うことではなく御心に適うことが行われますように」(14:36)。御子イエスにとって「良いこと」は、ご自分の願われることではなくて、「父なる神の御心にかなうこと」‐十字架の死に至るまで従順でおられること‐であったのである。

 ところが「キリストに良いこと」に対して「私たち人間にとって良いこと」は一体何であろうか。それは主イエスを殺す計画を企てていたファリサイ派の人々や祭司長たちに助言したその年の大祭司カイアファの預言に良く表れていることにほかならない。「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」(ヨハネ11:50)。彼は自分も知らないうちに民の罪を贖うための「主イエスの十字架の死」を預言したが、それはナザレのイエスをこのまま放置しておけば、自分たちがローマ帝国によって滅ぼされることを恐れて口にした殺意に満ちた助言であり、そのナザレのイエスを殺すこと、こそ「自分たちに好都合」で、「良いこと」であった。

最後に主イエスは「ご自分に良いこと」をしたその女性の行動こそ、代々の教会に長く語り伝えられることをこう言われた。「はっきり言って置く。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えらえるだろう」(9節)。まさに主イエスの頭に注がれたナルドの香油の香りは、2千年の年月が過ぎゆくとも形見となり、「福音の種」となったのである。私たちは自分も知らないうちに「キリストに良いこと」を「自分に好都合のこと」にして、また「神の御心に適うこと」を「自分に有益なこと」にしてしまうような弱い者であるが、どうか、聖霊の御助けによって「キリストに良いこと」を弁えつつ、「自分に出来る限りのこと」に励んでゆく群れであり続けたいと切に願うのである。

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