引き渡される主

9月23日

牧師 梁 在哲

マルコによる福音書14章32~42節

「世の罪を取り除く神の小羊」として来られた主イエスは過越の食事を終えられた後、エルサレムの東側ギデロン川を渡ってゲッセマネに行かれた。そこで主イエスはお一人で地面にひれ伏して御父に祈られた。ところが戻ってご覧になると、三人の弟子たちは眠っていた。主イエスはご自分の十字架の死の前の苦しみと悲しみを全く知らずに、一緒に祈ることさえ出来ず眠っている弟子たちの姿をご覧になってこう言われた。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても肉体は弱い」(38節)。目を覚まして祈らなければならないことを知りながら祈られない弱さ、それを知りながら実践できないように陥れる霊的な力、それこそ罪に他ならないのである。

主イエスは最初に戻って来て弟子たちを責められたが二度目は沈黙されて三度目はこう言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される」(41節)。主イエスはイスカリオテのユダの裏切りによって罪人たちの手に引き渡されたが、「引き渡す」と言う言葉はローマ帝国の迫害に耐え切れなくなった初期キリスト教の教父たちが命を賭けた信仰の書物を踏み絵とするように迫害者たちの手に引き渡して背教者(Traditor)となった出来事から由来するものである。その意味においてイスカリオテのユダは勿論、ペトロをはじめ、他の弟子たちも別の形で主イエスを罪人たちの手に引き渡した裏切り者となったが、御子なるイエスは「アッバ、父よ、あなたは何でもお出来になります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私が願うことではなく御心に適うことが行われますように」(36節)、と祈られて、御自ら罪人の手にご自分を引き渡されることによって十字架の死へ進まれた。それを宗教改革者カルヴァンはこう言い表した。「主イエスはまるで仇と約束をされたようにご自分を十字架の死へお渡しになった。」

御子なるイエスは御父に死にいたるまで、それも十字架の死に至るまで従順でおられて御自らご自分を十字架の死へ引き渡される模範をお示しになったが、私たちは主イエスの模範に倣って一体何を引き渡すべきであろうか。聖書の御言葉はそれについて私たちにこう伝えている。「私たちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています。死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」(コリントⅡ4:11)。実際、「さらされる」と「引き渡される」と言う表現はギリシャ語「パラディドミ」から由来する同意語である。使徒パウロが証したように私たちは御自らご自分を十字架の死へ引き渡される主イエスの模範に倣って以前の利己的で邪な生き方、また知りながら実践出来ない罪を死に引き渡されつつ、折を得ても得なくて主イエスのために日々「罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて神に対して生きている者」(ローマ611)であり続けたいと切に願うのである。

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