見よ、ここにいる

 10月7日

牧師 梁 在哲

マルコによる福音書14章53~65節

まだ朝早く暗い内に人々は主イエスをゲッセマネからエルサレムの大祭司の所へ連れて行った。大祭司、律法学者、長老たちは安息日の前に主イエスを死刑にした後、気楽に過越祭を過ごすために急いでいたからである。彼らは主イエスを殺すことを前もって決めつけてそれを裏付ける偽の証言を捜していたが、彼らから雇われた者の証言は食い違っていた。今日においても我々はキリスト教を白い眼で見ている人々から主イエスが受けられた仕打ちより優しいことを期待してはならないし、周りから誹謗・中傷を受ける時、例え病気や災いなどの原因を主イエスを信じることのせいにする、根も葉もない話しを聞いても驚いてはならないのである。

大祭司はいらいらして主イエスの口から証拠となる言葉が出るように尋ねたが、主イエスは相手の不純な尋問に巻き込まれないように沈黙を保たれた。そこで重ねて大祭司は尋ねた。『「おまえはほむべき方の子、メシアなのか。」と言った』(61節)。皆、固唾を飲んで主イエスのお答えを待っていたが、ついに「イエスは言われた。そうです。あなたたちは人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」(62節)。主イエスは沈黙を破られて、質問された以上のことをお答えになった。主イエスが言われた「そうです」は、神の山ホレブで燃え尽きない柴の間からモーセに言われた「私はある。私はあるという者だ」(出エジプト3:14)。と言われた神ご自身のお言葉であった。主イエスはお言葉とそのありさまにおいて御自ら「私はある」と言われるお方でおられることを明らかにされたのである。それはイザヤ預言者を通して語られた神ご自身のお言葉‐ 『私が神であることを、「見よ、ここにいる」と言う者であることを知るようになる』 (イザヤ52:6)。‐であった。

主イエスは我々の罪を担われるために人間が勝手に設けた裁きの場に立たせられて苦しみと侮辱の仕打ちを受けられた。我々は暗闇の業に包まれた裁きの場に立たせられた主イエスのみ姿を仰ぐ時、自分の試練に真正面から向き合うことが出来るのではないだろうか。何故ならば、我々の試練の場に主イエスご自身が立って下って、我々と同様に試練に遭われたからである。「この大祭司は私たちの弱さに同情出来ない方ではなく、罪を犯されなかったがあらゆる点において私たちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ人への手紙4:15)。ところが、我々の試練の場は主日礼拝において語られる復活なさった主イエスのお声が聞かれる時、また聖餐において語られる御言葉が聞かれる時、「恵みの場」となるのである。それゆえ、我々は聖霊の御助けによって主イエスのお声が聞かれてその「恵みの場」に近づくことが許され、今まで向き合って来た自分の試練を乗り越えられて主イエスが再び来られる望みに生きることが出来るのではないだろうか。「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって時宜にかなった助けを頂くために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ人への手紙4:16)。「あなたがたは世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」(ヨハネ1633)。

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