主の沈黙

 10月21日

牧師 梁 在哲 

マルコによる福音書15章1~15節

主イエスはイスカリオテのユダヤから人々に引き渡された後、ユダヤの権力者たち ‐ 律法学者、祭司長たち、長老たち ‐ に引き渡され、続いてピラトのもとに引き渡され、更に十字架の死刑を執行するローマ兵士へと引き渡された。祭司長たちは主イエスを訴えて死刑にするため必死になって、『そこで祭司長たちが色々とイエスを訴えた。ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに」しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った』(35節。) ピラトは一目でこのナザレのイエスという人が反逆を企てるような者ではないことを見抜いてむしろ主イエスのことを彼らの企てから守ろうとした。しかし、主イエスはユダヤの最高法院で沈黙を守られた今、ピラト総督のもとで行われるローマの裁判でも沈黙のままにおられた。「苦役を課せられて、かがみこみ、彼は口を開かなった。屠り場に引かれる小羊のように毛を刈る者の前に物を言わない羊のように彼は口を開かなった」(イザヤ53:7)。

イスカリオテのユダは主イエスを裏切り、弟子たちは恐れのあまりに主イエスを見捨てて逃げてしまい、ペトロは誓いを立てる程まで呪いの言葉を口にしながら主イエスを否認してしまい、祭司長たちは主イエスを殺そうとする目的のためには手段を選ばず、群衆を煽った。真実のことを知らずに煽られた群衆は彼らの手先となった。群衆は主イエスを「十字架につけろ」と叫び続けて、結局ピラトは彼らに屈服してしまい、主イエスを十字架に引き渡した総責任者として全世界の信徒たちが「ポンテオピラトのもとに苦しみを受け十字架につけられ」と、使徒信条を告白する度に非難される者となっている。祭司長たちは自分たちの企てたままにピラトと群衆を利用して主イエスを殺すように決めつけたと、またピラトもやはり自分こそ、その裁判を決めつける最終的な権力を握っているのだと、思い込んでいた。

しかし、この一連の出来事の全ては神ご自身のご計画通り、成し遂げられることを彼らは知らなかったのである。御子なる主イエスの十字架への道は父なる神の御旨によって成し遂げられることを彼らは知ることも出来なければ見ることも出来なかったのである。そして彼らは「十字架につけろ」と、叫ぶ群衆の呪い声に覆われている主イエスの沈黙のお声をも聞こえなかったのである。宗教指導者たちとピラトの思い込み、そして殺意と呪いに満ちていた群衆の叫び声は過ぎ去り、主イエスの沈黙のお声は永遠に残るゆえに私たちは主の沈黙のお声に耳を傾けなければならいのである。私たちは試練の場 ‐ 十字架への道 ‐ に沈黙のまま、お立ちになられた主イエスの模範に倣いつつ、主イエスの沈黙のお声に耳を澄まし、私たちが神の御前で正しい者 ‐義‐ とされて生きるように「私は復活であり、命である」と、言われる復活なさった主イエスのみ姿を仰ぎたいと切に願うのである。

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