御救いの約束

11月18日

 牧師 梁 在哲

出エジプト記3章1~15節

東京神学大学元学長であられる近藤勝彦先生はある教会学校教案誌の巻頭言において「神の召し」についてこう語られた。「聖書では神の召しはキリストの弟子として御許に集められること、そして主から遣わされることを言います。召命と派遣は一つです。この意味でキリスト者とされた人で召されていない人はいません」。ホレブの山で柴は燃えているのに燃え尽きない光景を見たモーセはそれを見極めるため前に進んだが神はモーセが道をそれて見に来るのをご覧になって柴の間から「モーセよ、モーセよ」と声をかけられた。それはモーセが神の御許に召される瞬間であった。

ホレブの山でモーセに現われた神は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(6節)であって「死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。全ての人は神によって生きているからである」(ルカ20:38)。このように全ての人が神によって生きていてアブラハム、イサク、ヤコブ、だけではなく、キリストを信じることによって全ての者は死んだが生きているのである。「イエスは言われた。私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ11:25-26)。

 神はイスラエル民の抑圧される様子をつぶさにご覧になり、彼らの叫びをお聞きになり、苦難の様子を知っておられてご自分の民を救い出されるためにモーセをエジプトにお遣わしになるが、彼は何故自分が「イスラエルの人びとをエジプトから導き出さねばならないのですか」(11節)、と答えた。ついに「神は言われた。私は必ずあなたと共にいる。このことこそ、私があなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出した時、あなたたちはこの山で神に仕える」(12節)。神はモーセと共におられることを約束してくださって、それこそ彼をお遣わしになるしるしであることを言われた。

それゆえ、モーセとイスラエル民はシナイ山で神をまつることだけではなくて「御救いの約束」を与えられて神との約束の民とされたのである。モーセがホレブの山で神の御許に召されてエジプトに遣わされる際、神より「御救いの約束」を与えられたようにキリスト者は皆、召されて世に遣わされる者ではないだろうか。私たちは主イエスの御許で立ち止まって神の召しを改めて覚えて、主イエスのご約束‐「私は世の終りまで、いつもあなたがた共にいる。」(マタイ28:20)‐に励まされつつ、主イエスの御許に召されて、地の果てにまで遣わされる者として生き続けたいと切に願うのである。

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