王なるキリスト

11月25日

牧師 梁 在哲

ルカによる福音書23章35~43節

主イエスがどうのようなお方であられるかは、御自ら成し遂げられた働きのうちに自ずと明らかになる。主イエスはご自身においてそしてその働きにおいて神の国は始まっており、すぐ近くに来ていることを告げ知らせたゆえに私たちの「預言者」である。また、父なる神は御子の十字架の犠牲を受け入れて下さり、主イエスは十字架の死を通して私たちの罪を贖って下さり、私たちのために執り成して下さることにおいて私たちの「祭司」である。そして主イエスは、十字架の上で苦しみを受け死んで葬られたが三日目に死人のうちよりよみがえられてご復活の力によって死と罪の力を打ち破り、勝利をおさめられたゆえに私たちの「王」である。

第一次世界大戦とロシア革命後、民衆は神から離れて自分が王となり、社会は悪い方向に向かいつつあることを懸念して教皇ピウス11世は、1925年アドベントの一週間前の主日から「王なるキリスト」を記念する週間として制定した。極度の苦しみの中で十字架につけられた主イエスと二人の犯罪人を群衆は立って見つめてあざ笑い、ローマ兵士たちも近寄って侮辱し始めたその時、主イエスの頭の上の札に書かれていた「ユダヤ人の王」の本当の意味を知っている者は誰もいなかったが、それは正に真実であり、主イエスこそ、ユダヤ人の王、異邦人の王、全ての人々の「王なるキリスト」である。

 群衆もローマ兵士たちも主イエスをあざ笑い、ついに十字架に一緒につけられていた一人の犯罪人まで主イエスを罵りながら非難し始めた。ところがもう一人の犯罪人が彼を厳しく叱って『この方は何も悪いことをしていない。そして、「イエスよ、あなたの御国においでになる時には私を思い出してください」と言った』(42-43節)。この犯罪人は十字架の苦しみの中でようやく自分自身と向き合うようになって神を畏れつつ自分が死んだ後も主イエスが王として栄光のうちに来られる時、ただ自分のことを遠く離れていても思い出して下さるように願ったのである。

しかし、主イエスは「離れていても遠くから」ではなくて「今日」、「御国においでになる時」ではなくてただちに「楽園」にいると、そして「思い出す」ことではなくて「一緒にいる」と言われた。「はっきり言っておくがあなたは今日私と一緒に楽園にいる」(43節)。それは驚くべき御救の約束であり、それはその犯罪人だけに限られたものではなくて信じる全ての者を救われる「良いお知らせ」であった。主イエスは悔い改める者をただちに、今日救われて一緒にいる「王なるキリスト」でおられるのである。私たちは「へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」であられた「王なるキリスト」の謙遜に倣って栄光の王として再び来られる主イエスを待ち望みつつ、「今日私と一緒に楽園にいる」と言われる「王なるキリスト」の御救いの「良いお知らせ」を宣べ伝え続けたいと切に願うのである。

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