主の来臨の希望

12月2日

牧師 梁 在哲

ルカによる福音書21章25~36節

今年は明治維新150周年ということであるが、英語で維新を「Restoration」と訳した時、それは天皇を中心したいわゆる神の国の「回復」を意味する。しかし、聖書において神の国の「回復」は、天体さえ揺り動かされる出来事(イザヤ13:10)が起こることを見る時、恐れずに主イエスの再臨は近づいていることを悟るようになる者たちを、正義と平和を回復させてご自分の民としてお探しになるために主イエスが再び来られる時、成し遂げられるものである。賀川豊彦先生は「日本教化の理想」と題してこう語られた。「日本の現状を見ると絶望の声を凡ゆる場所に於いて耳にする。村に行けば村の嘆きを,工場に行けば工場の苦悶の声を聴き、漁村に行っても魚はとれない。(中略)深い絶望の声が溢れている。しかし、絶望するな。神は我々が絶望する時に、希望を備え給ふ。」賀川先生は「神の国運動」において我々が嘆きと苦悩のあげく絶望する時さえ、神は「正義と平和の神の国」を回復してくださる「希望」を備えてくださることを力強く唱えたのではないだろうか。

主イエスは、ご自分が再び来られる時、全宇宙的な兆しを伴うことになり(25節)、世は混乱と自然災害のために悲嘆に陥って、人々は恐れのあまりに気を失うほどになる(26節)、と言われた。また、再び来られるまでに被造物や自然界を通してそのしるしは現れて、全世界と被造物は堕落した人間が遭遇する困難な境遇を共に苦しんでいることを言われた。内村鑑三先生もその苦しみを共にする自然界と被造物の代わりに「天然」と言う言葉を用いられたが、使徒パウロもその状態をこう証した。「被造物が既に今日まで共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています」(ローマ8:22)。しかし、主イエスはご自身が再び来られる日が近づいてしるしが現れた後、「力と栄光を帯びて雲に乗って来る」(27節)と、言われた。その時に備えなかった者には恐怖が襲いかかるが、主の再臨を待ち望む者には「解放の時」となるだろうと、主イエスは言われた。「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」 (28節)。

その「解放の時」を使徒パウロはこう証した。「被造物だけではなく、霊の初穂を頂いている私たちも神の子とされること、つまり体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。私たちは、このような希望によって救われているのです」(ローマ8:23~24)。我々は信仰によって「霊的な救い」に既にあずかっているが、体は依然として「死の奴隷」となっている。しかし主イエスが再び来られる時、体をも贖われて死の奴隷から解放されて娶ったり嫁いだりすることのない輝かしい体へ変えられるゆえに、我々はうめきながら「解放の時」への希望に生きるのである。私たちはアドベントの恵みに感謝し「主の来臨の希望」に生きる召された者として礼拝と執り成しの祈りを捧げ、教会に仕え続けたいと切に願うのである。

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