御言葉の力

12月9日

牧師 梁 在哲

ルカによる福音書21章25~36節

主イエスは天体さえ揺り動かされる出来事のゆえに人々は恐ろしさの余り気を失うだろう(26節)、と終末の預言を終えられた後「いちじくの木」のたとえをあげられた。それは主イエスが再び来られる「時のしるし」を分かるように(29~33節)、そして主イエスの御前に立つことが出来るように「いつも目を覚まして祈りなさい」(34節―36節)、ということであった。私たちは主日礼拝ごとに使徒信条をもって「かしこより来りて生ける者と死ねる者とを審きたまはん」、と主イエスの再び来られるのを信じて告白し続けているが、まさに主イエスは私たちの救い主として、また審き主として再び来られるのである。

ハイデルベルグ信仰問答は「問52」において「生ける者と死ねる者とを審かれるためのキリストの再臨は私たちをどのように慰めるのか」という問いに対してこう答える。「私があらゆる悲しみや迫害の中でも頭を上げて、かつて私のために神の裁きに自らを差し出し、全ての呪いを私から取り去って下さった、まさにその裁き主が天から来られることを待ち望むように、です。」これは何と驚くべき慰めであろうか。私たちを救うために十字架で死んで下さった救い主は裁き主として再び来られて私たちはそのお方による裁きに向き合う(ローマ5:8)ゆえに何も恐れることはないのである。

私たちは東日本大震災のような自然災害などに瀕して来たし、また様々な苦難や災難に溢れる今の時代は続くように思われるが、インマヌエルとしてこの世に来られた主イエスの「御言葉の力」に依り頼って主イエスの再び来られるのを待ち望んでいる者なのである。私たちは復活させられ、裁きを受け、そして永遠の命の栄光を受ける(ヨハネ黙示録21:4)復活の体‐娶ったり嫁いだりすることのない‐全く新しい霊的な体をいただくようになるその時を待ち望みつつ、主イエスより促されたように「いつも目を覚まして祈る」者であり続けたいと切に願うのである。「主イエスよ、来てください」(ヨハネ黙示録22:20)。

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