神の恵みに包まれている幼子

12月30日

牧師 梁 在哲

ルカによる福音書2章22~40節

  私どもの南房教会は毎年9月の第二の主日礼拝において高齢の方々を覚えて「敬老の祝福の祈り」をささげ、高齢の方々の信仰と人生の大事な経験をともに分かち合う素晴らしい伝統を受け継いでいる。聖書の御言葉は聖霊に導かれて幼子イエスに出会い、証をし、イスラエルに御救いをお与えになる神に讃美を捧げる高齢の二人の預言者の経験を伝えている。聖霊の御導きによって神殿の境内に入った高齢の預言者シメオンは、幼子イエスとご両親に出会って幼子イエスを腕に抱き、神に讃美を捧げて(29~32節)ヨセフとマリアご両親を祝福して、母親マリアには主イエスのご受難と十字架の道を告げた。もう一人の高齢の預言者アンナも、幼子イエスに気づき、近づいて神に讃美を捧げ(38節)、高齢の二人は聖霊に導かれて「神の御恵み」を経験させていただくようになったのである。

  高齢のシメオンとアンナ二人共、その生涯を通して悩みや苦しみ、また失望、悲しみと、悔いることが、一杯あったに違いないが、しかし彼らはそれにも関わらず「イスラエルの慰められる」のを待ち望みながら、人生の大海原で荒波に飲み込まれることなくて神がお与えになる希望に満ちている明日に目を向けながら讃美を捧げ続けたのである。私たちもこの一年間を振り返って自分たちのことを二人の高齢の預言者のことに重ねて見たいと思うのである。それは自分たちの生涯を通して「神の御恵み」を経験させていただき、殊にご自分の独り子をお与えになったほどに世をそして私たちを愛してくださった「神の御恵み」を経験させていただくことではないだろうか。

  福音書の記者は幼子イエスが「たくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」(40節)。と伝えているが、「神の恵みに包まれている」幼子イエスのように私たちも「神の恵み」のゆえに大胆に父なる神に信頼をよせて近づくことが許されているのではないだろうか。なぜなら、私たちは「神は恵みにより、御子イエスを信じる信仰によって救われた」(エフェソ2:8~9)神の恵みの御業にあずかっているからである。その神の恵みをまた、私たちは主日礼拝ごとに改めて経験させていただいている。それは主日礼拝と聖餐式において繰り返して罪の赦しが宣言され、喜びと感謝をもって世に遣わされることではないだろうか。神以外のこの世のものに心を奪われて神に背いて死ぬべき滅びの道を歩んで行く私たちに父なる神は永遠の命を得させるために独り子をお遣わしになった。どうか私たちは神の御恵みに包まれている者として神の恵みに感謝し、御名を褒め称える生涯を歩んでゆく者でありたいと願うのである。

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