日々一つにされる主

6月23日

牧師 梁 在哲

使徒言行録2章37~47節

五旬祭の日、聖霊に満たされたペトロは、イスラエルの全家に声を張り上げ、こう語った。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを神は主とし、またメシアとなさったのです」(36節)、と。人々はそれを聞いて大いに心を打たれ、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」(37節)、と 言った。それは自分の罪を悟り、悔い改めて悲しむ声であり、この地上で教会が生まれる産声であった。それゆえ、使徒パウロもダマスコの途上で復活された主イエスに出会い、同じ声をあげたのである(22:10節)。

すると、ペトロは主の道を求める者たちにこう言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス · キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(38節)、と。主イエスはペトロの口を通して語られた。それは一生、一回限りの悔い改めによって与えられる罪のお赦しで、その具体的な表現として主イエスの名によって授けられる洗礼と聖霊を示すお声であった。そのようなペトロの証を聞いたおびただしい人々は、悔い改めて心から喜んでペトロの言葉を受け入れた(41節)。

そして「彼らは使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(42節)。主イエスが行われた全てのことを目撃した使徒たちの経験を受け継ぐために、初代教会はイスカリオテのユダの代わりにマティアをくじ引きで選出し、使徒の教えを聞き、学ぶことに専念した。彼らは、単なる集い以上の「相互の交わり(コイノニア)」-「共に食事し、共に祈り、全てのものを共有にし」-に熱心であった。初代教会の使徒たちの教えを通してなされた主イエスご自身の御業 ‐コイノニア -は、代々の教会に受け継がれ、主イエスが再び来られるその時までこの地上の教会がなすべきものである。

使徒たちの働きを通して現れる主イエスの御業のゆえに、初代の教会の姿、殊に礼拝において人々は、心を打たれ「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」(47節)。地上の教会は、それぞれ置かれている時代と状況が異なっているゆえに、なすべき主イエスの御業のための務めも同様ではない。しかし、神を唯一の神としてまことの礼拝を捧げ、教会を造り上げることにおいては一つにならなければならない。何故ならば、主イエスご自身「救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」からである。私たちは日々一つにされる主イエスの御業に正しく応えるように常に祈り、問いつつ、励んで参りたいと切に願うのである。

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