探し出し、救い出される主

7月7日

牧師 梁 在哲

ルカによる福音書15章1~10節

ルカによる福音書15章は、「見失った羊」、「無くした銀貨」、「放蕩息子」のたとえ話のゆえに「神の憐れみの章」と呼ばれている。主イエスのたとえ話を聴く相手も弟子たちや群衆ではなく、「失われた者」、徴税人と罪人たちとなっている。ファリサイ派の人々や律法学者たちはそのような者たちと親しくし、食事をも一緒にされる主イエスを非難した(2節)。そこで主イエスは次のたとえを話された。『あなたがたの中に百匹の 羊を持っている人がいてその 一匹を見失ったとすれば九十九匹を野原に残して見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら喜んでその羊を担いで家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて「見失った羊を見つけたので一緖に喜んでください」と言うであろう』、と(4~6節)。神は99匹を無視した訳ではなくて失われた一匹を愛されたのである。

その愛をペトロはこう証した。「ある人たちは遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」、と(ペトロⅡ3:9)。失われた羊を見つけた善き羊飼いは羊の疲れや怪我を防ぐため無理に羊を追い込むことなく、肩に担いで帰って来る。ここに、見つけた羊を担いで帰って来る良き羊飼いのように失われた罪人を見つけられたキリストの喜びと彼らの罪を十字架の死によって担ってくださったキリストの愛が示されている。それをペトロはこう証した。「そして、十字架にかかって自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。私たちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によってあなたがたはいやされました」(ペトロⅠ2:24)。                                                                                                                        

主イエスのたとえ話には罪によって失われてしまった人々を深く憐れみ、熱心に捜し求め(8~10節)、ついに見出し、救い出される父なる神の御救いの業が繰り返され、預言者エゼキエルもそのことをこう預言した。「牧者が自分の羊がちりぢりになっている時にその群れを探すように私は自分の羊を探す。私は雲と密雲の日に散らされた群れを全ての場所から救い出す」(エゼキエル34:12)。良き羊飼いが失われた羊を優しい眼差しで背に負うように御子なる主イエスは私たちを捜し出しその罪を御自ら担い、救い出され、私たちを父なる神のみもとに運んでくださるお方であられる。主イエスより探し出され、救い出された者として私たちは主の道を求める者や教会から離れている「失われた者」を主のみもとに連れて来て全てのことを主の御旨にゆだねつつ、祈り続ける者でありたいと願うのである。

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