神の民の旅路

11月10日

牧師 梁 在哲

 

創世記12章1~9節        ヨハネによる福音書 8章51~59節

信仰の父と呼ばれるアブラハムは、「生まれ故郷、父の家を離れて旅立った」(1節)。アブラムはただ、「神の言葉に従って、神より示された地に向かったハランを出発したとき75歳であった」(4節)。彼は「石橋もたたいて渡る」ような、また「やみくもに突っ走って行く」ような者ではなく、ただ神のご約束のお言葉を信じ、行き先も知らずに旅立った。そのような彼に神は先ず、「子孫」のご約束-「私はあなたを大いなる国民にし」(2節)-を与えられた。後に、神はご約束の証しとしてアブラムの名前をアブラハム(多くの国民の父)に変えられた。次のご約束は「土地」のことであった。彼は父、テラの生前、カルデアのウルからまた、父の死後にはハランからその土地を離れた。ついに神はカナン人が住んでいた所で彼に「あなたの子孫にこの土地を与える」(7節)、と言われた。最後のご約束は、「祝福」のことであった。神は彼に「祝福の源となるようにまた、彼に約束された祝福の中に全ての地上の氏族も入るように」(2~3節)約束してくださった。

神のご約束-「土地と子孫と祝福」-は、アブラハムの肉の子孫である、イスラエルの民の歴史の中で、現実のものとして成就された。そして、福音書は主の福音こそ、昔アブラハムに与えられた父なる神のご約束が御子イエスにおいて完全に成就されたことを、伝えている(マタイ1:1、ヨハネ8:56)。それゆえ、「誰でもイエス・キリストを信じる者はその信仰によってまことのアブラハムの子孫となり、相続人としてアブラハムの子孫になれる」(ガラテヤ3:29)のである。およそ4000年前、アブラハムに言われた神のご約束-「地上の氏族は、すべてあなたによって祝福に入る」(3節)-こそ、全ての歪んだ民族主義や人種や言葉や肌の色などを乗り越えるうえで心に留めねばならないものではないだろうか。何故なら、私たちが地上のすべての氏族に福音を携えて行く時こそ、彼らも祝福にあずかれるようになり、それこそ、神の御旨であるからである。

「神の痛みの神学」の著者として知られている北森喜蔵元東京神学大学教授は、新約聖書のアブラハム解釈について「旧約聖書というお札に印刷されている旧約聖書の言葉を透かして見れば新約聖書の言っているアブラハム像が見えてくる」と、述べた。その意味において私たちは行き先も知らずに神のご約束に従って旅立ったアブラムのように「神が設計者であり、建設者である堅固な土台を持つ都を待望し」(ヘブライ11:10)つつ、地上の旅路を歩み続ける「神の民」ではないだろうか。私たちはこの地上において「はるかに天の故郷を仰いで喜びの声をあげるよその者であり、仮住まいの者」(ヘブライ11:13)ではないだろうか。父なる神は、お約束のお言葉によってアブラハムを祝福し、御子イエスを通して私たちにもそのご約束を成就してくださった。私たちは、神のご約束のお言葉を心に刻みつつ、主の福音を宣べ伝えたいと願うのである。

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