遣わされた者

3月8日の説教

牧師 梁 在哲

列王記下6章8~17節    ヨハネによる福音書9章1~12節

主イエスは、仮庵祭の後、通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた(9:1)。旧約聖書には目の不自由な者が癒された奇跡のしるしは見当たらない。ただ、メシアのしるしとして預言されただけである(イザヤ35:5)。ユダヤ人たちは、人の病と苦難は、ご本人や両親の罪の結果だと信じていた。彼らの関心事は、施すより罪と病とのかかわりだけにあったので、弟子たちも、そのように巷で広まっていた宿題を主イエスに尋ねていた(2節)。しかし、主は弟子たちの憶測を拒否され、神は生まれつき目の見えない人を癒してくださることこそ、ご自分の御業の栄光を現わされることであるとを言われた(3節)。使徒パウロも「神に召されて苦難の中にある人には万事が益となるように共に働く」ことを証した(ローマ8:28)。

 また、主はご自身が世にいる間、「世の光」であると言われた。十字架でなくなられる夜が来る前、日のあるうちに、神の業を成し遂げなければならないと、言われた(4~5節)。その上、主は、地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった(6節)。主は手を触れられ、また、御言葉をもって、様々なやり方で人々を癒してくださった。神が土(アダマ )の塵で人(アダム )を形づくられたように(創世記2:7)、主は生まれつき目の見えない人の目に土をこねてお塗になった。そして、「シロアム-『遣わされた者』という 意味-の池に行って 洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た(7節)。シロアム池の水は、御子イエスを通して父なる神から与えられる救いと癒しの水であった。それゆえ、仮庵祭の時、祭司長はそのシロアム池の水を毎日汲んで祭壇に注ぎ、預言者イザヤも、神の救いを拒み続ける民を預言した(イザヤ8:6)。

父なる神より世に遣わされた御子イエスは、生まれつき目の見えない人をシロアム池にお遣わしになり、彼は、素直に主に聞き従った。彼は神の救いと癒しの水で自分の目を洗い、目が見えるようになった。シロアム池の奇跡の出来事は、主こそ「世の光」でおられる真実を証している。それゆえ、生まれつき目の見えない人は、「ナザレのイエスと言う人」より、癒され、目が見えるようになった。私たちも以前は皆、霊的には、生まれつき目の見えない者であった。しかし、「世の光」でおられる主より、私たちは、霊的な目を与えられ、主日礼拝ごとに世に遣わされる。主より「遣わされた者」として私たちは、御子を「世の光」としてお遣わしになった「父なる神」、私たちをそれぞれのシロアム池の水にお遣わしになる「御子なる神」、御父と御子より遣わされた「聖霊なる三位一体の神」をほめたたえたいと願う。

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