神の民の選び

11月8日の説教

梁在哲牧師

 

創世記13章1~18節     マタイによる福音書3章7~12節

洗礼者ヨハネは、神を信じると言いながら神の約束に生きていない者は、実を結ばない木や麦の殻のように切り倒されて、焼き払われる(10、12節)と厳しく戒めた。そこには、悔い改めて神に立ち帰り、救われるのか、或いは、悔い改めを拒み、滅ぼされるのか、グレーゾーンのない「神の民の選び」しかない。新しいイスラエルの民として教会は、世の諸々の民の中での一つの民でありつつ、神の約束にあずかり、その約束に生きる神の民である(ローマ4:16節)。父なる神が、御子イエス・キリストにおいてわたしたちに永遠の命と聖霊にある自由の約束を与えられたゆえに、教会は、世の環境に依存しつつも完全に自由であり、弱さの中で強さを保ち、地上を旅する神の民なのである。

アブラハムと甥ロトも、「神の民の選び」に迫られていた。ロトは、貪り欲しがる心に先走り、欲望に満ちて目をあげて眺めた結果、肉の選びを先にしてしまった(創世記13:10~12節)。一方、アブラハムの選びは、神に命じられたままに信仰の目を上げ、神の約束に生きるものであった(14~15節)。わたしたちも以前は、「御子イエスとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、父なる神のご約束と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていた」(エフェソ2:12)。しかし、父なる神は、御子イエス・キリストの十字架の血潮によってわたしたちを神の民として御もとに近づくことを許された(13節)。わたしたちは、聖霊の御助けによって父なる神の約束を疑うようなことはなく、御子イエスを信じる信仰によって強められ、三位一体の神を褒めたたえつつ、地上の旅路を歩み続けたいと願う。

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