イエスの祈り

5月9日の説教

梁在哲牧師

 

列王記上18章30~39節     マタイによる福音書6章9~15節

主の祈りは、「御名が崇められますように」(9節)と、全ての人が御名を讃美し、喜びに溢れ、神に栄光を帰すように祈り始める。次に「御国が来ますように」(10節)と願い、キリストにおいて御国は既に来ているが、主が再び来られ、御国が完成される終りの日を待ち望むように祈り求める。また、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」(10節)と祈る。地上にも御心が速やかに、かつ隅々まで行われるように祈る。引き続き、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」(11節)と、わたしたちの命を日々保つ必要なものを祈り求める。その上、「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」(12節)と求める。神の御前に日毎に犯した罪と、積み重ねた負い目を主のゆえに、全て赦し、帳消しくださいと祈り求める。その罪が帳消しされるまでには、真の平安は訪れないからである。自分の力では、到底返すことの出来ない負い目を帳消しされた者は、自分に負い目のある者をも赦す謙遜な心を祈る。

最後に「わたしたちを 誘惑に遭わせず」(13節)と願う。キリスト者の生涯は、サタンの誘惑を受ける危険にさらされている。自分の力ではなく、サタンに勝利した、只一人のお方、イエス・キリストの御もとに逃れ、その勝利にあずかることを祈る。今も御子イエスは、父なる神の右に座っていて、わたしたちの信仰告白と祈りと共に聖霊の働きを通して永遠の命が与えられるよう執り成してくださる(ローマ8:34)。それゆえ、わたしたちの祈りをも、父なる神の息吹である聖霊をいただくための呼吸でなければならない。もし、それがなければ、わたしたちの信仰は、酸欠どころか、窒息し、良き業は単なる肉の業に過ぎなくなるからである。全ての良き賜物を人間に期待するのではなく、ただ、神にのみに期待し、それこそが神に喜ばれる祈りではないだろうか。今も父なる神の右におられ、わたしたちのために執り成してくださる御子イエスの祈りに励まされ、「御心が行われますように。たとえ、どのような御心であっても、それに従わせてください」と祈り続けたいと願う。

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