新しい主の軛

5月30日の説教

梁在哲牧師

 

イザヤ書6章1~8節      マタイによる福音書11章25~30節

キリストの地上の生涯は、拒否と歓迎が交錯するものであった。洗礼者ヨハネさえ、「来るべき方はあなたでしょうか。それとも他の方を待たなければなりませんか」(マタイ11:6)と、訊ねるほど疑いを抱くようになった。しかしイエスは、そのような疑いやファリサイ派の人々の冷たい態度、カファルナウムの人々の悔い改めない不信仰にも拘わらず、御父に感謝し、ほめたたえられた(25節)。イエスは、御父のことが世の知恵ある者や賢い者には隠され、幼子のような者に示されたことを聖霊に満たされ、喜びに溢れて言われた(25節・ルカ11:21)。また、それこそ、御心に適うことであり、万物は御父によって創られ、ご自分に任せられ、示そうと思われた者のみに御父を知ることが許されると言われた(26~27節)。

使徒パウロも、神は、世の知恵や能力のある者に恥をかかせ、自慢出来ないように無学や無力な者をお選びになったと証した(コリントⅠ1:20~23、25~27)。ここでイエスは、疲れや重荷のような絶えない苦しみに迫られる者に優しく、しかも力強い招きと共に、確かな約束をしてくださる(28節)。イエスは、的から外れた矢のように神から離れ苦しむ者は、誰でもご自分のみもとに来て、負いやすく、軽いご自分の新しい軛を共に負い、真の安らぎを得るように言われた(29~30節)。それゆえ、古代教父アウグステイヌスは、「その荷は負う者にとって重荷ではなく、大空へ羽ばたける翼となる」と述べ、使徒パウロもキリストと共に軛を負うことこそ、真の平安の道だと証した(コリントⅡ6:14~15)。わたしたちは、キリストの新しい軛を負う者として、たとえ世から拒否されても御子イエスの模範に倣い、聖霊に満たされつつ、父なる神をほめたたえたいと願う。

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