創造信仰

10月23日の説教

梁在哲牧師

 

ヨブ記38章1~18節    使徒言行録14章8~17節

使徒パウロは、テモテの故郷、リストラで足の不自由な男を癒し、福音を告げ知らせた。パウロの行ったことを見た群衆は、興奮してパウロとバルナバは、異邦人の神々に間違われる大騒ぎに巻き込まれた。しかし、パウロとバルバナは、聖書の神は、偶像を遥かに超え、天と地と海とそしてその中にあるすべてのものを造られた方であることを伝えた(使徒14:12~15)。それは地上の財産でも異邦人の神々でもなく、ただ天地万物を創造された神をのみ信頼する「創造信仰」であった。ヨブは、「無垢な正しい人で神を畏れ、悪を避けて生きていた」が、サタンは神に「ヨブが利益もないのに神を敬うでしょうか」、と唆した(ヨブ1:8~9)。そこで神は、サタンに「それでは彼をお前のいいようにするがよい。ただ、命だけは奪うな」、と言われた(2:6)。ヨブは言葉に言い尽くせない試練に覆われ、友人たちとも言い争い続けた。ついに神は、嵐の中からヨブに天地の創造主を思い起こすように答えて仰せになった。神はヨブに「創造信仰」を思い起こさせられ、人間の力が決して神に及ぶことはあり得ないことを自覚させられた(38:1~4)。結局、ヨブは創造主なる神に出会い、悔い改めて自分の高ぶりを捨てて、神の愛を信頼して生きる者と創り変えられる(42:5~6)。

 「創造信仰」は、何もない無から、御言葉(ロゴス)によって世界が造られることを信じ、何か創造に先立つ素材は先に存在しない(ヨハネ1:1~3)。御言葉によって無から創造された世界のことを解き明かす聖書の「創造信仰」は、「見よ、それは極めて良かった」、と言われる神の祝福のもとにある(創世記1:31)。それゆえ、神の愛と力を認め、信じることが「創造信仰」の根底にある。ところが、神の創造に先立つ材料に堕落や汚れの原因を見て、そのような物質世界から脱出することを救済と見做す、「グノーシス・英知主義(ギリシャ語で知識の意味)」の蔓延は、ヨハネによる福音書が書き記される一つの切っ掛けとなった。グノーシス主義者たちは、創造主神の行いを否定し、キリストのお体を仮に取ったものとして見做し、キリストの十字架の死と復活をも否定したからである。今日においても様々なスピリチュアル運動の中に姿を変えてそのシンドローム(症候群)は、現われている。しかし、聖書の「創造信仰」こそ、そのシンドロームの克服をもたらすものに他ならない。わたしたちは、自分の思いあがりや高ぶりを捨てて、天地万物の創造主でおられる父なる神の愛と、天地創造の御言葉として働かれる御子イエス・キリストの恵みと、御父と御子の天地創造の業を成就してくださる聖霊の交わりに生きたいと切に願う。

前回 目次へ 次回