聖なる輝きに満ちる主

3月19日の説教

梁在哲牧師

 

出エジプト記34章29~35節  ルカによる福音書9章28~36節

モーセがシナイ山で主なる神の教えと戒めを授けられ、深い交わりにあずかった際、彼の顔が栄光に輝いていたために、イスラエルの子らは、モーセの顔を見つめえない程であった(出エジプト34:30~35)。モーセは、主なる神の前では顔の覆いを取ったが、自分の顔の輝きが完全に消え去ることを民に見せないように、覆いを掛けて語った。その輝きは、「つかの間の栄光」であるからであった。ダビデは、主なる神の栄光をこう褒め称えた。「神の子らよ、主に帰せよ、栄光と力を主に帰せよ。御名の栄光を主に帰せよ。聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ」と(詩編29:1~2)。

イエスは、ご自分の受難を予告されてから8日ほどたったとき、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた(ルカ9:28~29)。それは、聖なる輝きに満ちる主イエス・キリストの栄光の御姿であった。その時、モーセとエリヤの二人は、栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期、十字架の死について話していた(31節)。

使徒パウロは、そのモーセの顔の輝きは、「つかの間の栄光」であり、その覆いこそ、律法に縛られていたイスラエルの無知と頑なな心を表わすものだと、証した(コリントⅡ3:7)。そして、イエス・キリストの霊の働きによって主の方に向き直れば、皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられて行くことを述べた(3:18)。この受難節のとき、わたしたちは、主イエスの十字架の死とご復活を、救いのしるしとして仰ぎつつ、聖なる輝きに満ちる主イエスの栄光を映し出すことが出来るように祈り願う。

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