7月のメッセージ

 2010年7月4日

南房教会 牧師 原田史郎

この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていていたのに見つかったからだ。

(ルカによる福音書15章24節)

 相変わらず、暗いニュースが続く中で、久しぶりに明るいニュースが最近ありました。それは、小惑星探査機「はやぶさ」が7年かけ60億キロの旅を終えて、地球に帰還したことです。わたしは、夜の報道番組でこの帰還の映像を見たのですが、中継しているキャスターも、心なしか涙ぐんでいるようでした。ことは、無機質の物体にすぎない探査機や衛星でしかないのに、なんでこんなに感動的なのでしょうか。

 それは、幾つかのドラマがあるからでしょう。ひとつは、7年という長い期間、関係者以外の地球上の殆どの人間は、「はやぶさ」のことなど、すっかり忘れてしまっていたのです。かの事業仕分けでも、大幅に概算要求の予算をカットされました。無念そうな宇宙航空研究開発機構の担当者のコメントが報道されましたが、世論は、誰も弁護しませんでした。

 また、7年という時を費やしたのは、60億キロという、気の遠くなるような長旅であったことです。そして、なにより感動的だったのは、帰還の大気圏再突入の時に、南十字星輝く天の川に、本体は流れ星のように輝きながら燃え尽き、抱えていたカプセルを無事、オーストラリアの砂漠に着地させたことです。わが身は砕け散っても、託されたカプセルを無事、送り届けるとは、まさにキリストの十字架の贖い(あがない)のようであり、同時にわたしたち日本人の滅びゆく美意識に見事にかない、義経記や忠臣蔵にも通じるものを、感じさせられました。

 これらの複数の要素が重なって、ドラマが生まれたのですが、わたしは、上記の聖書の御言葉を思い起こしました。それは、この衛星が見失われ、通信も途絶えたこともあった中で、(開発者の熱心と技術力もあったことなのですが)もう一度、能力を回復し、地球に帰ってきたことです。満身創痍のボロボロの姿で、必死に、送りだしたわたしたちのところに帰ってきたその姿を見たとき、大きな喜びを感じました。

 主イエス・キリストは、帰ってきた放蕩息子のたとえ話の中で、見失われていた息子の帰還を、どれだけ父が喜んだかを、語られました。この息子こそ、わたしたちであり、喜ぶ父は、神さまなのです。「見つかった」(ユレセー)という言葉は、「ユーリスコー」というギリシャ語の第一不定過去という時制です。この時制は、一般的に動作が完了したとか継続しているというのでなく、ある動作が「行われた」「あった」という事実そのものを表す、印象深いギリシャ語独特のテンスです。

 わたしたちがキリストによって、神さまのもとに帰る時、見失われていた私たちは、確かに神さまに見出され、神さまの喜びになるのです。

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