6月のメッセージ「網を捨てて、父親を船に残した者」 2018年6月3日 南房教会牧師 梁 在哲(ヤン ジェチョル) マルコよる福音書第1章14~20節 主イエスは荒れ野から「ガリラヤ」へ行かれて御自ら人々に近づいて自分では改めよともしない罪人を探し求めて「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と、伝道を始められた。その後、主イエスはご自分の福音を聞いて悔い改めて信じている人々に「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう。」」と、語り始められた。エレミヤ預言者は、神がご自分に背いた人々の審判のために漁師や狩人をお遣わしになることを預言したが、しかし主イエスが言われた「人間をとる漁師」は、差し迫ってくる審判から人々を救うために主イエスの御前に集めるために遣わされる者であった。 ガリラヤ湖のほとりから少し離れた所にシモン・ペトロとアンデレ兄弟の友たちであるゼベタイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが舟の中で網の手入れをしていた。主イエスは、お二人の様子を御覽になり、先ほどシモン・ペトロとアンデレ兄弟と同じく直ちにお声をおかけになられた。主イエスのお呼び掛けにヨハネもヤコブもすぐ答えた。「この二人も、父ゼベタイを雇い人たちと一緖に、舟に残してイエスの後について行った。」この4人の兄弟たちは自分たちの仕事を直ちに捨てて立ち上がって主イエスの後について行った。今まで自分たちがやっていた仕事、知っていた全てを後にして未知の世界へ足を踏み始めたのである。主イエスの呼び掛けのお声は「直ちに網を捨てて、父親を雇い人と一緖に舟に残して」従わなければならない不思議な力として物凄い勢いで彼らに肉薄していた。 私たちはここで雇人たちと一緒に舟に残されたヤコブヨハネの父親、ゼべタイのことを心に留めて見たい。今日、一家揃って礼拝に出席されるご家庭もおられる一方、ご家族をご自宅に残してお一人で礼拝に来られる方もおられる。ご自宅に残されているご家族のことを思われる方々に私たちは心を寄せて見たい。人々を雇うほど裕福に暮らしていたゼべタイは、賴もしいお二人の息子、ヤコブとヨハネをある日突然、見送らなければならなかった。しかし彼は息子たちを引き留めようとはしなかったようである。もしかしたら彼は二人の息子のために每日、祈り続けたかも知れない。なぜならお二人の兄弟ヤコブとヨハネは「雷の子」と呼ばれる程気性の激しい兄弟であったからである。 網を捨てて雇人たちと一緒に父親を船に残して主イエスに従った、ヤコブとヨハネの後ろには「舟に残された者」、父親ゼべタイの目には見えない思いと支えがあったのではないだろうか。今日、親たちは自分たち息子の将来のことなどを心配してため息をつく時さえ、あると思うがしかし、父親ゼベタイは、お二人の兄弟のために何となく支えなければならないことを無言で語っている。もう一人の父親ゼべタイが人々のご家庭におられる。例え、その方が連れ合いであれ、ご両親であれ、兄弟姉妹であれ、父親ゼべタイのようにご家庭に残されて礼拝に出席しているご自分の家族のために思いを寄せておられるのではないだろうか。人々はその思いに支えられて礼拝の御恵みに与っているのである。私たちは船に残された父親ゼベタイのようにご家庭に残されている方々の救いのために執り成しの祈りを根気よく、絶えずに捧げ続ける群れでありたいと願う。 |