12月のメッセージ「恥を取り去って下さる主」 2018年12月2日 南房教会牧師 梁 在哲(ヤン ジェチョル) ルカによる福音書1章5~25節 本日から降誕日前日に至る約4週間は、待降節(アドベント)と定められているが、アドベントはラテン語の「来臨」を意味するアドベントウスから来ており、アドベントには第一に、主のご降誕を思い起こし、クリスマスの祝いに備え、第二に、再び来られる主の来臨を待ち望みつつ、心の準備をするのがこの時期である。そのゆえ、私たちの信仰は待降節(アドベント)、クリスマス、受難節、イースター、ペンテコステといった一年がかりで主イエス・キリストと共に歩んで行くことだと、言われるが、このアドベントの時、ザカリア夫妻の前に届けられた神のお声‐恥を取り去ってくださる喜びの天使のお知らせの‐を、新たな思いをもって共に聞きたい。 当時のイスラエルの社会において子どもに恵まれていないまま、年をとることはザカリア夫妻の個人的な苦しみはもちろん、恥の原因ともなっていたのである。このようなザカリアの前に天使ガブリエルは「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサべトは男を産む。その子をヨハネと名づけなさい」(13節)。と知らせた。しかし、ザカリアにとってそれは信じがたいものであった。「何によって私はそれを知ることが出来るのでしょうか」(18節)。 この出来事によってザカリアは口が利けなくなる。「時が来れば実現する私の言葉を信じなかったからである」(20節)。彼は言葉を失った。否、言葉を失われて沈黙の領域に入れられた。「言葉を失う沈黙」についてある神学者はこう言った。「沈黙と信仰の間には或る種の関係が存在する。沈黙はその上で信仰という超自然的なるものが成就されるところの自然的な土台なのである。」神ご自身が人間を救われるために御自ら人間となられてこの世に来られたクリスマスの出来事の前に、人間は言葉を失われ、言葉でそれに答えることが出来なくなるのではないだろうか。 神の御顧みを悟ったエリサベトは、感激の言葉を口にした。「主は今こそ、こうして私に目を留め、人々の間から私の恥を取り去ってくださいました」 (25節)。使徒パウロは私たちが「罪の奴隷」となることを恥だと証したが(ローマ6:21)、私たちもこのアドベントの時、感激の言葉を口にしたエリサベトのように「罪の奴隷」から十字架の贖いによって私たちの恥を取り去ってくださった主イエスを褒め称えつつ、新しく備えられたこの一年を、御子イエス・キリストの中に開かれた父なる神まで一筋に続いている道を一年がかりで聖霊の御助けに依り頼って歩み続けたいと願うのである。 |