8月のメッセージ「私は主を仰ぎ見る」 2019年8月4日 南房教会牧師 梁 在哲(ヤン ジェチョル) ヨブ記19章23~27節 私どもの南房教会は、日本基督教団教会暦に沿って毎年8月「平和聖日」の礼拝において「日本基督教団戦争責任告白」を告白し、「世の光」「地の塩」である教会として「見張り」の使命を改め続けて来た。ところが、つい最近私どもの社会は日々の暮らしの平凡な平和さえ、脅かされつつある現実に直面していると思われる。 それは「訳の分からない災い」によって平穏な日々の平和をあまりにも簡単に奪われる理不尽なものではないだろうか。それゆえ人々は「訳の分からない災い」と人間の罪との間に何かかかわりがあるのではないかその原因を探し出して解決を求める。主イエスはこのような理不尽な災いと人の罪とは何のかかわりもなくむしろ悔い改めしない者への裁きを厳しく戒められた(ルカ13:2~3)。 旧約聖書のヨブ記は「訳の分からない災い」のような理不尽な問題とヨブの忍耐を真正面から取り上げているし、使徒ヤコブもそのヨブの忍耐を証している。(ヤコブ5:11)ヨブ自身も、「訳の分からない災い」の前で忍耐をもって神に叫んでいる。ついにヨブは沈黙どころか、神は自分に敵意さえ、抱いておられると思い、絶望感に耐えられなくなってしまう。 しかし、ヨブは渾身の力を絞り出して「腹の底から焦がれはらわたは絶え入る」と、叫び、声をあげ必死になって問いかけ続ける。「この皮膚が損なわれようともこの身をもって私は神を仰ぎ見るであろう。この私が仰ぎ見るほかならぬこの目で見る」と。ヨブにとって神は、怒りを燃やされ敵のように四方から攻められ、残された僅かな望みさえも木のように抜き去られるお方である。 ついにヨブは、畏れを覚えながら最後の勇気を絞って神を仰ぎ見ることを、神に出会うことを願っている。このヨブの心境の変化をある神学者は「舟人が最後には自分の舟が難破させられるその岩にしがみ付くようにヨブも自分を難破させられる神にしがみ付いて最後の渾身の力を振り絞っている」と、解き明かした。 御子イエス・キリストは、ご自分を難破させられる父なる神にしがみ付かれて十字架の道へ進まれて、その従順であられる模範をお示しになった。私たちは天の国を目指して地上の旅路を続けながら主イエスの十字架と復活の証人として主イエスの模範に倣いつつ、自分の足下だけではなく、主イエスを仰ぎ見続ける者になりたいと願うのである。 |