12月のメッセージ「その名はインマヌエル」 2020年12月6日 南房教会牧師 梁 在哲(ヤン ジェチョル) イザヤ書7章14節 ヨハネによる福音書1章4~5節 預言者イザヤは救い主、メシアのご誕生をこう預言した。「それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ7:14)。預言者イザヤが預言したインマヌエルは、「神は我々と共におられる」という意味であり、主の天使がヨセフの夢に現れて告げたイエスという名前は、「自分の民を罪から救う」意味を持っている。 「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1:4~5)。光から遠く離れれば離れるほど、暗くなるように人間は、神から遠ざかりになればなるほど、その人生は暗くなり、罪が現れるようになる。父なる神は、御子を通して世の人間を訪ねられ、我々と共におられる道を求められた。父なる神は、御子を世にお遣わしになり、インマヌエルとして我々と共におられることを願われたからである。 父ある神は、我々人間と共におられる時こそ、人間は罪から遠く離れ、御救いは、成し遂げられる。この時こそ、父なる神は、「ご自分の民を罪から救う者」イエス・キリストを通して「インマヌエル」として我々と共におられる。二千年前、父なる神は、人間になられ、最も貧しくて低い所、飼い葉桶でお生まれになり、いつも貧しい人、病人の人、徴税人、やもめまた娼婦にいたるまで、人々から疎まれている者と共におられた。 我々も慰めや励ましの言葉さえ、見当たらないまま、誰かのかたわらに立ち尽くし、共にいる難しさを知っている。しかし、語りかける言葉さえ持たないまま、誰かのそばに居合わせている時、主はインマヌエルとして、共におられる。それゆえ、わたしたちも、「インマヌエル」として来られたイエス・キリストの良い知らせを携えて人々のかたわらに共にいることを許されえいる。我々の罪を救われるためにインマヌエルとして世に来られた御子イエス・キリストのご降誕をお祝いつつ、父なる神の御業を褒め称えたいと願う。 |