11月のメッセージ「永遠を思う心

2021117

南房教会牧師 梁 在哲(ヤン ジェチョル)

 

コへレトの言葉3章11節    ローマの信徒への手紙1章21節

ユダヤ人の古い伝承によればソロモン王は、若い時に「雅歌」を書き記し、壮年期に「箴言」を、そして老年期に「コへレトの言葉」を記録したと言われる。しかし、宗教改革者ルター以降、「コへレトの言葉」の著者を巡って様々な異論が唱えられたが、「コへレトの言葉」の著者は(以下著者)、自分を「エルサレムの王、ダビデの子」として明らかにしている。「コへレト」は、「集いを呼びかける者」、或いは「集いにおいて語る者」を表わすヘブライ語である。著者は、「知恵と知識を深く極め」(1:16)、「金銀を蓄え、宝を手に入れ、名声を博し」(2:8)、「どのような快楽をも余さず試みた」(2:10)。しかし、得られた人生の結論は、「空しさ」であるがゆえに、著者は、最初から「なんという空しさ、全ては空しい」と告白している(1:2)。

果たして著者は、何故、それほど空しさを感じたのだろうか。それは、人間の日々の労苦と営みが空しく、太陽の下、新しいものは何ひとつないからであった(1:3~4、9~10)。ところが、著者は、単純に人生を厭世的に見ることではなく、その「空しさ」を遥かに超える永遠なる神を思う心を追い求めたゆえに「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる」と告白している(3:11)。他の聖書の翻訳は、「永遠を思う心」を「歴史の謎を解こうとする心」と訳している。

しばしば、「歴史(HISTORY)」は「イエス・キリスト、彼の物語(HIS-STORY)」、或いは、「歴史は、物語を語る(History tells stories)」と言われる。東京神学大学学長芳賀力先生は、著書「物語る教会の神学」において「我々は自分の物語を神の物語の中に位置づけて初めて自分が本当には誰であるのかをより深く知るようになり、真の自己認識は、神認識に依るのである」と述べられた。神は「永遠なる神の物語を語る」その「歴史を解こうとする心」を人に与えられると著者は告白している。ところが、「永遠を思う心」を人に与えられても、「神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」ゆえに、時空を超えられる神の御旨を測り知る者は、誰一人もいないことを著者は悟るようになる(3:11)。

挙句の果てに、著者を空しさの泥沼から救ったのは、神の御前で自分の限界に悟るその神への信仰によるものであった。父なる神は、その独り子を世にお遣わしになり、十字架の死に惜しまず与えられ、死人の内よりよみがえらせて下さった。たとえ、わたしたちにイエス・キリストを物語るその「歴史の謎を解こうとする心」を与えられていても、父なる神のなさる業を始めから終りまで見極めることは、許されていない。それ故、わたしたちは、ただ、聖霊の御助けを求めつつ、父なる神の御旨に従い、御子イエス・キリストの十字架と復活の証人として、三位一体の神を褒め称えたいと思う。

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