4月のメッセージ「2022年度を始めるにあたって」 2022年4月3日 南房教会牧師 梁 在哲(ヤン ジェチョル) 私どもの南房教会は、南房総の館山地域において伝道開始25年目の節目の年、2022年度を迎えている。ところが、この数年間、国も社会もそして、教会もコロナウイルス感染防止対策に追われつつ、一日も早くパンデミックが静まるのを待ち望んでいる。しかし、その望みとは裏腹にコロナウイルスは、追い付けないほど、様々な変異ウイルスに変わり、今も変わりつつある。長引くコロナ禍のゆえに、行き詰まりを覚え、一日も早く以前のような礼拝と交わりを取り戻したいという声も聞こえて来るこういう時こそ、私たちは、初代教会の信仰の原点に立ち帰って、神は何を求めておられるのかを改めて問い続けねばならないと思う。何故なら、初代教会は、主の十字架と復活を宣べ伝える「宣教する教会」を形づくる一方、ナザレのイエスを救い主と信じ、父なる神を「礼拝する教会」を造り上げること以外には、存在する如何なる意味を持たなかったからである。初代教会は、聖霊に満ち溢れた使徒たちの大いなる働きによってキリストを頭とし、主イエスを信じる者をその肢体とし、一つに呼び集められた(エクレシア)。 初代教会は、主の十字架の死と復活の新しい命に共にあずかる「一人の人格」として働き続けた。それゆえ、主の十字架の死にあずかり、主の復活の新しい命にあずかる者は皆、「新しい人間」として造り上げら、新しい生命力に満ち溢れていた。彼らにとって教会の苦しみは、主を信じるお一人一人の苦しみであり、主を信じるお一人一人の苦しみは、教会の苦しみに他ならないものであった。そうであるから、初代教会の信仰同士においてその交わり(献金・奉仕・施し)は、誰かに強制され、また命じられたものではなく、各々自由な心と思いによるものとなり、「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」(使徒4:34a)。そして、イスラエルの民が約束の地、カナンに入る前にモアブの平野でモーセを通して与えられた神のご約束は、-「必ずあなたを祝福されるから、貧しい者はいなくなる」 -
成し遂げられた(申命記15:4)。新しい年度を迎え、「心も思いも一つにする教会」(使徒4:32a)を教会標語として掲げ、主の御声に聞き従いつつ、「礼拝する教会」・「宣教する教会」の形成に励んで参りたいと願う。 |