1月のメッセージ「主に出会う聖所」

2024年1月7

南房教会牧師 梁 在哲

 

詩編73篇16~17節  コリントの信徒への手紙一 3章16~17節

「わたしの目に労苦と映ることの意味を知りたいと思い計り、ついに、わたしは神の聖所を訪れ、彼らの行く末を見分けた」(詩編73:16~17)。

                                

世の人々は、過ぎた旧来の面目を一新し、何か変化を求めつつ、この新しい年を迎えようとしていると思われる。ところが、新しい年になったからといって全てが新しくされる訳ではなく、この世は、依然としてもどかしくて理不尽な出来事に見舞われている。我々は、そのもどかしさのゆえに、戸惑いさえ覚えるようになるのではなかろうか。

我々と同様に詩編の記者も神に逆ら者の安泰を見て、心が騒ぎ、はらわたの裂ける思いがすると告白している。しかし、彼は自分には、その理不尽さを解決する力がない現実の前に主なる神の聖所に向かって足を運ぶようになる。彼は聖所に入ってついに、悪人たちの行く末を見分け、出来事の一部始終を悟るようになる(詩編73:16~17)。

神の聖所は、ヤコブが石を枕にして寝て夢を見て、「ベテル(神の家)」と名付けたところ(創世記28:19)から、神の箱が安置された幕屋(ヨシュア8:30)とソロモン王の時代に建てられた神殿にいたるまでそれらを示す場所である。その意味において主イエス・キリストこそ、まことの聖所であり、主イエスを信じる我々をも聖所に他ならない(コリントⅠ3:16~17)。

それゆえ、我々は神の聖所を訪れ、主イエスに言われ、ヤコブが夢で主なる神に出会ったように主イエスに出会わなければならい。例え、我々の心が騒ぎ、はらわたの裂ける思いを抱いても我々は、その意味を思い計り、ついに、神の聖所を訪れ、世の行く末を見分け、主にある変化に富み、躍動する新しい一年になるように切に祈り願う。

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