イエス天に上げられる 2009年5月24日 礼拝説教 原田史郎牧師
使徒言行録1章6~11節 エルサレムに集まっていた使徒たちは、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と聞きました。この問いは、当時の人々が思い描いていた終末観を反映しています。それと同時に、この問いによって、 使徒言行録のテーマがここから、引き出されてきます。 主は、時期については父がお定めになるとして、将来への希望を残されました。主が、ここで強調されたのは、聖霊の時代が来る、ということでした。聖霊が降るとき、その大きなしるしは、「力」が与えられるということです。この力によって、私たちは「地の果てまで」復活の主の証人になるのです。ある聖書学者は、「このイエスの言葉は、命令であると同時に約束でもある」と言いました。 こう話し終わると、主は天に上げられ、その姿は見えなくなりました。その時、二人の天使が現れ、「イエスは、あなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」と言いました。 初代の教会には、み国がもうそこまで来ているという、熱い期待がありました。そのためには、今ここにある現実の日常の生活を放棄してまでも、それに賭ける、といった思いがありました。 しかし、この言葉は、やがて訪れる再臨の時を待ちながら、残された地上の歩みを続けていくことの大切さを語っているのです。 主イエスの再臨を待ちつつ歩むということは、どんな歩みですか。それは、一つに、目を覚まし心を引き締めつつ歩む、ということです。マタイ福音書25章に、賢い5人と、愚かな5人の乙女たちの姿が語られています。門には入れなかったおとめに、「目を覚ましていなさい。」と主人は告げます。でも、緊張ばかりではありません。私たちを愛し、救いをくださった主の再臨は、希望に満ち、期待に満ちたことなのです。 |