わが神、何故、我を見捨てたもうや

2010年3月28日

説教 原田 史郎牧師

マルコによる福音書 15章33~41節

 

 午後3時になりますと、十字架上の主イエスは、大声で叫びます。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。 これは主が話されていたアラマイク語で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。この言葉は、詩編22編の冒頭の言葉でもあります。そこで詩人は、この言葉に続いて「なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか」(詩22:2)と懊悩します。

 

 「なぜ」と、主イエスは問われます。主にとって、神の怒りを身に受け、神に見捨てられるいかなる理由も、ご自身の内に見出すことは出来なかったからです。ルカ福音書23章に、主の両側に架けられた二人の犯罪人がいます。一人が主に向かって悪口を言うのに対して、もう一人がこう言います。「おまえは同じ刑を受けながら神を恐れないのか。お前は自分のやったことのむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ」そして、こう言い及びます。「しかし、この方はなにも悪いことをしていない」(ルカ23:41)。

 

 十字架上の主イエスの深い苦しみと痛み、孤独と絶望に対する唯一の答えは、「他の者のために苦しむ」ということであります。キリストの姿は、旧約で「彼が坦ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛み」(イザヤ53:416を参照)と予言されている「苦難の僕」そのものです。このキリストの担われた苦しみによって、わたしたちの罪が赦され、新しい生への道が開かれました。

 

 主は、苦しみの極致にあっても、なお「わたしの神」と祈られました。主は決して神を離されなかったのです。わたしたちもまた、わたしのために命を捨ててくださったこのキリストを、決して離してはならないのです。

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